たった数十年で消え去った米国の「どこにでもいた鳥」、ヒースヘン絶滅の教訓
すでに絶滅した「ヒースヘン」(heath hen。学名はTympanuchus cupido cupido、和名はニューイングランドソウゲンライチョウ)という鳥は、さまざまな理由により、歴史的に興味深い種となっている。
こうした理由のうち第1に挙げられるものは、17世紀初頭に英国から新大陸に渡った清教徒たち「ピルグリム・ファーザーズ」が初めて迎えた感謝祭の食卓に供された鳥だと推測されている点だ。
この推測は納得がいくものだ。清教徒たちが到着した1600年代には、ヒースヘンは、現在の米国北東部にあたる地域の海沿いに数多く生息していたからだ。当時であれば、野生の七面鳥よりも、ヒースヘンを何羽か捕まえてディナーに供する方が簡単だった可能性が高い(とはいえ七面鳥も、捕まえるのにそれほど労力は必要なかったはずだが)。
実際、18世紀になると、ヒースヘンは「貧者の食料」として知られるようになった。それだけ安価で、ふんだんに供給されていたということだ。
しかし1932年までに、この種は絶滅してしまった。ヒースヘンの物語は、生態学における重要な論点を裏付ける。それは、ある種の個体数が非常に多いとしても、絶滅の可能性がゼロになるわけではない、ということだ。
その典型例が、北米大陸の東岸に生息していたリョコウバトだ。かつては地球上で最も個体数が多い鳥類であり、1800年代にはその群れがあまりに巨大で、何時間も空を覆い尽くして真っ暗になるほどだった。しかし1914年までに、こちらも絶滅してしまった。絶え間ない乱獲と、広範な生態系の喪失によって、地球上から消え去ってしまったのだ。
(余談:人類は多くの鳥類の種を絶滅に追いやってきたが、時には逆に、鳥類が人間を攻撃することもある。)
では、ヒースヘンの不幸な物語と、これほど急速に絶滅への道をたどった理由について、以下に解説していこう。
■「どこにでもいる鳥」が、数十年で絶滅に至るまで
ソウゲンライチョウの亜種の一つとされるヒースヘンは、かつてはメイン州からバージニア州にかけての、低木が茂る海岸沿いの平地に数多く生息していた。その外観で何より特徴的なのは「角」だが、これは実際には、オスが求愛ディスプレイの際に立てることがある飾り羽だった。
春になると、オスのヒースヘンはレック(ライチョウなどの鳥が集まって求愛行動をする場所)に集まり、派手な踊りを披露する。その際には、首の両側にあるオレンジ色の気嚢を膨らませ、足を踏み鳴らして、自らの優越性と活力をアピールする。
こうしたディスプレイ行動が行われる場所は、しばしば「ブーミング・グラウンド」と呼ばれ、数世代、時には1世紀にわたって同じ場所が用いられるケースもある。生息域の一部では、鳥たちの見せる華やかな求愛行動が人目を引き、観光客が集まるほどだった。
ヒースヘンは、ソウゲンライチョウ属(Tympanuchus)に属するなかで、ニューイングランド地方を中心とする北米東海岸に生息する唯一の種という、他にない特徴を備えていた(他のソウゲンライチョウは、中西部のプレーリーに生息している)。このように地理的に隔絶された環境に生息していた彼らは、他のソウゲンライチョウと比べると小型で、体色がより赤いという、遺伝的に異なる集団を形成していた。
急速な個体数減少につながった最初の大打撃
悲しいことにヒースヘンは、急速な個体数減少に直面した。最初の最も大きな打撃となったのは乱獲だった。1800年代の初頭までに、ヒースヘンは生息域の大半の部分ですでに消滅しつつあった。この種の狩猟にはほとんど制約がなく、1日で数十羽が捕獲されることもしばしばだった。安価で簡単に手に入るタンパク源として評判を博したことで、ヒースヘンは入植者や、その後に生まれた都市居住者向けの市場で人気の選択肢となった。
しかも、脅威となったのは乱獲だけではなかった。ヒースヘンはもともと低木が茂り、時おり自然発生する山火事によって調整が起こるような環境に生息していた。だが、米国北東部で工業化が進むにつれて、こうした土地は農場や都市、道路によって置き換えられた。
さらに、火災を抑制しようとする取り組みによって、(これまでは自然な山火事で淘汰されていた木々が残ることによって)森林の密度が高まり、ヒースヘンには適さない環境へと変化した。さらにそうした取り組みにより、(可燃物が増えたことによって)生態系を完全に破壊するような大規模な山火事のリスクがかえって高まった。
ヒースヘンの生息域は縮小を続け、1870年代までに生息地はマサチューセッツ州の沖合にあるマーサズ・ヴィンヤード島のみになっていた。この島で、小さな孤立した個体群が、数十年にわたってなんとか命をつないでいたのだ。
自然保護活動家が保護に乗り出し、保護区を制定したものの、その取り組みはあまりにささやか、かつ遅すぎた。(島に七面鳥が導入されたことによる)伝染病の蔓延や厳冬、山火事、近親交配、捕食者といったすべての要素が、個体数の減少をひき起こした。
最後の一撃は、静かにやってきた。1929年になると、生息していることが知られるヒースヘンはわずか1羽になっていた。それが「ブーミング・ベン」と名付けられた、最後の1羽のオスだ。
それから3年にわたり、この個体は求愛のディスプレイを続け、決して現れない、つがいの相手を乞い求めた。1932年以降、この個体も目撃されることはなくなった。
今日、ヒースヘンの事例は、安泰と思われた種でも、人間の一生ほどの期間でこの世から消え去ってしまうことがあることを知らせる、痛切な教訓となっている。
この悲しい物語にもし光明があるとするなら、それはヒースヘンを救おうとする人間たちの取り組みが、米国に生息する鳥類の絶滅を防ごうとする協調的な働きかけの初期の例だった、という点だ。
あまりに遅すぎたとはいえ、ヒースヘンで得られた教訓が基盤となり、その後の種の保護では成功例が生まれている。アメリカシロヅルやナキハクチョウ、アメリカオシドリなどは、個体数を回復させている。その意味でヒースヘンは、絶滅したものの、その後に続く種にとって、より希望が持てる道を切り開いたといえるだろう。