西洋の技術なしで「世界最高」純度の金…江戸時代の佐渡島
「岩の出先に 三階松(さんがいまつ)植えて 鶴が黄金(こがね)の 巣をかける」。黒いムカデを描いた装束、わらの烏帽子(えぼし)の人物が祝い唄を口ずさむ。相川鶴子金銀山(新潟県佐渡市)に伝わる祭礼「やわらぎ」の一幕だ。神様の気を和ませ、佐渡の硬い岩石を「やわらげる」という意味が込められている。
2000万年前の鉱床
佐渡は古くから黄金の島として知られ、平安時代の「今昔物語集」には砂金を採る男の話がある。佐渡に金山ができたのは太古の日本列島の形成が関係する。
日本列島の下では地球の表面を覆う巨大な硬い岩板「プレート」が2枚、ゆっくり沈み込む。地下深くで岩石に水が加わり、高温高圧下で岩石が溶けてマグマができる。マグマが地表で噴出するのが火山だ。
マグマが地表近くに達すると地下水が熱水になり、岩石の割れ目に沿って上る。この熱水に含まれた成分が冷えて固まると金や銀を含む石英の鉱脈になる。
金の形成に詳しい秋田大の高橋亮平教授は「温泉の『湯の花』が地下深くで作られるイメージで形成される」と話す。高橋教授と卒業生の香遠ひかり氏の調査では、佐渡の鉱床は約2000万年前のものとみられ、プレート運動で日本列島の形ができるはるか前だ。
佐渡の金山は各地で鉱脈を探す「山師」が戦国時代の1596年に発見。金鉱脈は白い石英に黒い筋で現れる。人々はその姿をムカデに例え、「やわらぎ」のような祭礼も生まれた。江戸幕府を開いた徳川家康は佐渡を直轄地とし幕府の財源に充てた。最盛期の17世紀初頭、佐渡は世界の産出量の5%にあたる金を生産したという。
鉱石に合う手法洗練
鉱脈中の金と銀は主に合金の状態で量はわずかだ。佐渡ではまず採掘した鉱石を粉にし、布を敷いた板の上で水に流す。重い金銀を含む粉は布に付着する。
次に、この粉に鉛を加えて高温で溶かし、金銀を鉛との合金(貴鉛)にする。灰を敷き詰めた鉄鍋の上で空気を吹き付け貴鉛を熱すると、鉛は酸化されて不純物と一緒に灰に染みこみ、金と銀の合金の粒が残る。「灰吹(はいふき)法」と呼ばれ、東アジアから石見(いわみ)銀山(島根県)を経て佐渡に伝わった。
この合金を砕き、海の塩を混ぜて焼く。これが「焼金(やききん)法」で、銀が塩に反応して塩化銀になり、金から分離できる。九州大の谷ノ内勇樹教授(非鉄金属製錬学)は「佐渡特有の金銀の比率や不純物に合う手法を洗練させたのだろう」と話す。
分業と工程管理
江戸時代初期には水銀で品質を高める「水銀アマルガム法」も導入されたが、幕府が鎖国政策で水銀の購入元のスペインを警戒し、輸入を止めた。佐渡は西洋で主流の手法を使わず、伝統の灰吹法と焼金法を続けて高品質の金を作った世界唯一の金山だ。18世紀半ばに全精錬工程を集約した「寄勝場(よせせりば)」が作られ、作業の分業化や緻密(ちみつ)な工程管理を実現し、精度を上げた。
明治2年の1869年に官営となって近代化が図られ、96年に民営となり生産を拡大。しかし次第に資源が枯渇し、平成元年の1989年、約400年の歴史に幕を下ろした。金の累計産出量は77トンで、現在操業中の菱刈鉱山(鹿児島県)に次いで国内2位だ。
元・国立科学博物館産業技術史資料情報センター長の鈴木一義氏によると、佐渡で精錬された金の最高純度は99.54%で、当時の世界最高水準だった。鈴木氏は「西洋からの知識が制限される中、独自技術を深めた佐渡の金山は、手工業で行う金生産の最高到達点と言えるかもしれない」と話す。(加藤遼也、写真も)
砂金と「山金」の恵み
昨年7月に世界文化遺産に登録された「佐渡島(さど)の金山」は、金を鉱脈から採掘する「相川鶴子金銀山」と、砂金を採る「西三川砂金山」の二つの鉱山地域で構成される。
鉱脈から採る金は、砂金に対し「山金」とも呼ぶ。砂金も起源は鉱脈で、地面に露出した鉱石が水の流れや風雨で削られ、川へ流れ込む。すると軟らかい金の粒同士が長い年月をかけて合体し成長するという。
この金の粒は銀を含んだ合金の状態だが、銀は水に接触した表面から少しずつ、川の水に溶ける。こうして黄金色に輝く砂金になるが、中心部には銀が残るという。
産業技術総合研究所鉱物資源研究グループの実松健造・上級主任研究員(金属鉱物資源)は「火山の熱水でできた金鉱床は歳月と共に岩石がもろくなり、砂金になって流出するため、500万年前より若い鉱床が多い。日本で2000万年前の古い金鉱床が残るのは珍しい」と話す。