なぜ深海魚は水圧に押しつぶされないのか?…人類と水圧との死闘と深海魚のナゾ
物理に挫折したあなたに。
大好評につき5刷となった講談社現代新書『学び直し高校物理』では高校物理の教科書に登場するお馴染みのテーマを題材に、物理法則が導き出された「理由」を考えていきます。
読み物形式で、納得!感動!興奮!あきらめるのはまだ早い!
本記事では熱力学編から、圧力についてくわしくみていきます。
深海魚はなぜ水圧に押しつぶされないのか?
「圧力」というのは高校の物理の教科書ではもっぱら熱力学のところにしか登場しない物理量である。ただ、実際には圧力は「単位面積当たりの力」を意味するだけなので、力学編で頻繁に登場する力がかかっているときには、その力を面積で割ればいいので、見かけ上どこにでもありそうな気がする。
しかし、実際には熱力学で出てくる気体の圧力というのは、力学で出てくる力とはかなり違うものなのである。たとえば、熱力学でよく出てくる「一定の圧力を保ったまま、体積が増える理想気体は〈仕事=圧力×体積の増分〉で計算される仕事を外部に対して行う」という式を考えてみよう。
仕事の計算に際して問題になるのは体積の増分に関係している部分の壁(たとえば、ピストン)にかかっている圧力だが、じゃあ、移動しない壁には圧力はかかっていないのか、というとそういうことはない。実は移動しようがしまいが、気体が入っている容器の内壁には同じ圧力がかかっているのである。
これは力学編で出てくる力とは似て非なるものだ。力には大きさと向きがなくてはいけないが、圧力は向きが違う内壁に垂直な方向にかかっているので、決まった一定の向きがなさそうに見える。
「いや、壁に垂直な方向なんだから向きはあるじゃないか」と言うなかれ。じゃあ、壁がない、容器の真ん中では圧力はどっち向きなのだろうか? 気体の内部でも圧力はあるに違いない。だが、壁がないのだから方向は決まらない。じゃあ、気体の圧力は何か壁のようなものを置かない限りは発生しない、「幻の力」のようなものなのだろうか。
そんなわけはないだろう。実際には圧力は容器の真ん中でもちゃんと存在している。じゃあ、そのときの向きは? というと答えは「あらゆる向き」ということになる。気体の中にある適当な領域をとり、その表面にかかっている圧力を全部足すと、それは気体の質量にかかっている重力と釣り合っている。それは当然だろう。そうでなければ気体は動いてしまう。
むしろ、圧力という物理量(?)は気体にかかっている重力などの力を打ち消すように決まっている、というほうが正しい理解ということになる。その意味では机の上に載っている物体に重力がかかっていても落ちないのは机から逆向きの力が加わっていて打ち消しているから、というのと同じである。
机が物体に及ぼす上向きの力は、物体にどんな重力がかかっているかが決まらないと決まらないのと同じように、気体のどこにどんな圧力が発生しているかは、気体に加わる重力などが決まらないと決まらないのである。
恐るべし水圧
地表付近に住んでいる私たちはふだん大気圧をあまり意識することはない。しかし、水圧のほうはそうはいかない。
10m潜るごとに水圧は1気圧ずつ増えていく。水深100mの海中では(もともとの大気圧の1気圧を加味すると)地上の11倍の水圧がかかる。そのため、呼吸で取り込む窒素が血液や体の組織に溶け込みやすくなり、めまいが生じる「窒素酔い」になりやすい。
それだけではない。海面に浮上するときには、一気に水圧が下がるため、体のしびれや痛み、呼吸困難などの重篤な症状が出る「減圧症」(潜水病)になる危険もある。
(大気圧は除くとして)深さ200mでは20気圧、深さ300mでは30気圧というとんでもない圧力になる。世の中にはすごい人がいるもので、エジプト軍特殊部隊の潜水工作員だったダイバーは、水深332.35mまで潜ったという(2014年当時の世界記録)。
12分で最深部まで潜り、潜水病を防ぐため、数種類のガスが入った60本以上の酸素ボンベを使い、約15時間かけて水面に戻ったというから恐れ入る。
なぜ深くなると、こんなに水圧が大きくなるのだろうか。これは、深いところではその上に載っている水の重さが全部かかっているからである。その水の重量に対抗できるだけの水圧がないと水は動いてしまう。
しかし、海底にしろコップに入っている水にしろ、底があるので下に動くことはできない。結果、水中にいるものには、上に乗っている膨大な水の重さに対抗できるだけの水圧が発生することになる。
水深が10m下がると1気圧ずつ水圧が上がっていくのは、水10m分の重さと、地球上の全大気の重さが同じ大きさだからである。それほどまでに気体と液体の密度の差は大きい。
地表面での大気の密度はだいたい液体の水の1000分の1しかない。一方、大気圏のうちもっとも密度が高い、地表に近い部分である対流圏はだいたい高度10kmまでとされる。10kmの1000分の1は10mなので、深さ10mごとに1気圧ずつ水圧が大きくなるという計算にだいたい符合する。
「水圧」との死闘
人類はこの水圧というものとずっと闘ってきた。人類にとって、宇宙へ行くほうがはるかに難易度が高いように思えるかもしれないが、宇宙空間と地表の圧力差はたった1気圧しかない。
宇宙に行くこと自体は海の中に深く潜るより大変だろうけど、宇宙空間に達してしまえば、圧力は深刻な問題ではなくなる(もちろん、無重力空間で暮らすには別の生理学的課題を克服する必要はあるが……)。
圧力に関する限り、宇宙より深海のほうが、はるかに厳しい。前述したように数百m潜っただけで水圧は数十気圧になってしまう。地上の数十倍もの圧力が体にかかるのだから、体が悲鳴をあげるのは当然だ。
これを克服するために、人類が開発したのが潜水服だ。
潜水服はヘルメットに防水服が結合したような構造で、そこに地上からポンプで空気を送り込む。しかし水圧がそのまま体にかかってしまうため、そんなに深くは潜れない。
この状況を大きく変えたのは潜水球の発明だった。潜水球は潜水具のヘルメット部分だけを拡大した球状の乗り物で、やわらかい潜水服と異なり、鋼鉄の外殻がしっかり水圧を受け止めるので、内部の人間は高圧にさらされることなく海の中に潜ることができた。
水圧は壁に沿った圧力で相殺され、球殻内部の圧力はけっして水圧と同じになることはないので、内部の人間の安全を保ったまま深海に潜ることが可能になった。この潜水球は1930年に当時としては驚異的な245mの深度までの潜水を可能にし、わずか4年後にはこれを923mという驚異的な深さにまで伸ばした。この潜水球は厚さ2.54cmの鋼鉄製だった。
この記録は30年後にはバチスカーフと呼ばれる潜航艇(潜水球のようにワイヤーでつるされず、自由に移動できる)で1万916mまで更新された。これ以上に深い海は現在までに知られていないので、人類はもっとも深い海にすでに到達していることになる。
これらの深海探索のもっとも顕著な成果は太陽光の届かない深海にも多くの生命体が生息していることの発見だった。こんな深海の生物がどうやってこんな高圧に耐えて潰れないで生きているのかと思うかもしれないが、深海生物の体の組織は油分や水分で満たされ、気体がほとんど含まれていない。体液も周囲の水圧と同じ水圧の水でできているから内外で圧力は釣り合っており、高い水圧の環境下でも、海水と同じ圧力で押し返すことにより、潰れることはない。バチスカーフや潜水球のように外圧に耐えたりする必要はないので余裕なのだ。
ちなみに、水族館の普通の水槽で深海魚が飼育できるのも同じ理由だ。深海魚を普通に釣り上げると死んでしまうのは、体内の高い圧力の水が、大気圧と釣り合わなくて体が破裂してしまうからである。ゆっくりと徐々に圧力を下げ、体内の高圧の液体を圧力が低い液体に交換していけばこんなことは起きない。
人間にしても深海魚にしても限られた生息圏のなかで生きているので、ふだんの生活のなかで体内と体外における圧力バランスを意識することは少ない。しかし、熱力学的な「圧力」の急変動は、確実に生物の生死に直結する。深海は、ふだん見落としがちな重要な事実に気づきを与えてくれる貴重な場所なのかもしれない。
つい最近(2023年6月)にも、タイタニックの残骸を見学することを目的とした観光潜水艇が乗員ごと深海で押し潰されるという痛ましい事故があったばかりだ。いまでも深海に赴くのは容易ではない。近くて遠い場所、それが人類にとっての深海の位置づけであり、当分の間これが変わることはないだろう。