じつは人類は「宇宙人に操られたシミュレーション上の存在」である可能性が「圧倒的に」高かった…!

じつは人類は「宇宙人に操られたシミュレーション上の存在」である可能性が「圧倒的に」高かった…!

歴史に「もしも」があったら?

 歴史にもしもはない、という。もしも武田信玄が病気で死ななかったら……もしも平泉で藤原泰衡(ふじわらの・やすひら)の軍勢に囲まれたとき、源義経が脱出していたら……そんなことは、考えても仕方のないことだ。

 でも、私たちは、ついそんなことを想像してしまう。もしも歴史が違う方向に進んでいたら、と夢見ることを、私たちはやめることができない。そして、それは……私たちだけでなく、他の知的生命体でも同じかもしれないのだ。

 スウェーデン人の哲学者であり、オックスフォード大学の教授であるニック・ボストロム(1973~)は、「シミュレーション仮説」を提唱した。この仮説は、私たちが生きている世界というものが、知的生命体が行っているコンピューター・シミュレーションである可能性を指摘したものである。

 私たち人類だって、どんどん文明が発達していけば、地球全体(ひょっとしたら宇宙全体)のシミュレーションを行うことが可能になるかもしれない。そうなれば、コンピューター上で少し条件を変えて、武田信玄が病気で死ななかった場合の戦国時代をシミュレートしてみる人が出てくるだろう。

 でも、きっとそれだけで終わらない。もしも桶狭間の戦いで今川義元が勝っていたら……もしも本能寺の変で織田信長が死ななかったら……そんな、ありとあらゆるシミュレーションが行われるはずだ。現実の歴史はたった1回なのに、きっとシミュレーションは何千回、何万回と行われるだろう。そして、そのシミュレーションが正確に現実を模したものであれば、その中の人々は意識さえ持つようになるかもしれない。

あなたの存在は「シミュレーション」上にある

 意識を持った現実の織田信長は1人だけれど、意識を持ったシミュレーション上の織田信長は何千人も何万人もいる。そして、もしもあなたが織田信長だったら……あなたは現実の織田信長だろうか、それともシミュレーション上の織田信長だろうか。

 もちろん、まず間違いなく、シミュレーション上の織田信長だろう。現実の織田信長である可能性は、数千分の一とか数万分の一とか非常に少ないのだから、あなたはシミュレーション上の織田信長である可能性が非常に高いのである。

 じつは、これと同じことが、すべての人に当てはまる。とにかく現実の世界よりも、シミュレーション上の世界の方が圧倒的に多いのだから、意識を持った住民の数も、現実の世界よりシミュレーション上の世界の方が圧倒的に多いはずだ。

 その場合、もしもあなたが意識を持った存在ならば(おそらくそうだろう)、あなたは現実の世界ではなくシミュレーションの世界に住んでいる可能性の方がずっと高い。おそらく、あなたも、あなたの周りの人も、みんなシミュレーション上の存在なのだ。

世界は5分前に出来た?

 イギリス国教会のジェームズ・アッシャー(1581~1656)がケンブリッジ大学副総長ジョン・ライトフット(1602~1675)とともに、聖書の記述を忠実に逆算して、天地創造は紀元前4004年であったと算出した。世界はおよそ6000年前にできたというわけだ。

 もちろん、この考えに対する反論もあった。しかし、たとえ紀元前4004年より前から世界が存在した証拠が見つかったとしても、そういう証拠も含めて紀元前4004年に世界が創られたのだと言われれば、それ以上反論することはできないだろう。

 それとは別に、「世界五分前仮説」というものもある。これはイギリスの哲学者であるバートランド・ラッセル(1872~1970)が唱えた思考実験で、世界は5分前に始まった、という仮説である。

 世界が5分前に始まったとしたら、私たちが5分前より昔のことを覚えているのはおかしいではないか、と思うかもしれない。でも、さきほどと同じ論理で、そんな疑問は論破できる。5分前より昔の記憶を持った状態で、私たちは5分前に創られたと考えればよいのである。

 たとえ、実際には過去がなかったとしても、あたかも過去があったような状態で5分前に世界が創られたのだと考えれば、そこには何の矛盾もない。「世界五分前仮説」を反証することは不可能なのである。

昨日の自分と今日の自分

 ボストロムの「シミュレーション仮説」や「ラッセルの世界五分前仮説」には、笑い飛ばして忘れてしまうわけにはいかない、重要な示唆が含まれている。反証できない思考実験というだけでなく、幾ばくかの現実性があるからだ。

 今、あなたには意識がある。でも、その意識は(あなたが昨晩徹夜していなければ)今日の朝から始まったものだ。

 私たちは毎日のように眠る。眠っていても、夢を見ているときなどは意識があるけれど、意識がないときもあるだろう。つまり、私たちの意識は、ずっと連続しているわけではない。眠っているときに、意識は途切れる。昨日の意識と今日の意識のあいだには断絶があるのである。

 私たちは、死んだら意識がなくなる。そういう意味では、眠っているあいだは死んでいるのと同じである。意識だけに注目すれば、眠るたびに死んで、起きるたびに生まれているといってもよいだろう。

昨日の記憶から、今日の自分へと連続している

 しかし、私たちは、そんな風には感じていない。自分という存在に連続性を感じている。昨日も今日も同じ自分が生きている、あるいは、昨日の意識と今日の意識は同じ自分の意識である、そう感じているわけだ。

 その理由は、昨日のことを記憶しているからだ。寝ているあいだに意識がなくなっても、脳の物質的な構造は保存されており、その物質的な構造の中に記憶が蓄えられている。そのため、朝がきて意識が生じると、昨日の記憶を意識が参照して、昨日も今日も同じ自分だという連続性を感じるのだ。ある意味、私たちは毎朝、世界五分前仮説を経験していることになる。

 したがって、連続性の根拠は、意識ではなく脳の物質的な構造にある。それは少し想像を逞しくして、こんなことを考えるとわかりやすいかもしれない。

 もしも、昨日のあなたの意識が、今日は私の体に飛んできて、私の意識になったとしよう。でも、私の意識になった以上は、私の脳の記憶を参照するので、その意識は昨日も私の意識だったように感じるだろう。そして、あなたの意識だったことは、きれいさっぱり忘れてしまうに違いない。

 もちろん実際の意識というものは、こんな風に人から人へと移れるような、魂のような存在ではないだろう。脳の物質的な構造が生み出すものだと考えられる。

 ただ、ここで重要なことは、おそらく意識自体には連続性がなく、毎朝、新たに生まれてくるということだ。それは、新しく生まれた生命に、新たに意識が生じるのと基本的には同じである。私たちは、意識に関するかぎり、毎晩死んで、毎晩生まれてくるのである。

現実よりはるかに多いシミュレーション上の生死

 新しく生まれた生命の意識と、朝起きた意識との違いは、脳に昨日の記憶があるかないか、ということだけだ。もし、そうだとすれば、ヒトは一生のあいだに何度も何度も(80歳以上生きるとすれば約3万回も)生と死を繰り返していることになる。

 そう考えると、ボストロムのシミュレーション仮説は、ますます強力になっていく。現実の住民よりシミュレーション上の住民の方が、数が多いというだけでなく、生きている時間も短くて済むからだ。

 必ずしも織田信長の一生を最初から最後までシミュレーションする必要はなく、好きな時期だけシミュレーションすればよいのである。そうであれば、シミュレーションはますます手軽に行えるようになり、ますますシミュレーションの回数は増えていくだろう。

 それにもかかわらず、シミュレーション上の織田信長は、(本当は5分前に生まれたかもしれないのに)物心がついたときからの記憶を持っているので、自分が何十年も生きてきたことを露ほども疑っていないのである。

 宇宙の知的生命体が5分前にシミュレーションを始めたことによって、あなたは5分前にシミュレーション上で生まれたのかもしれない。もちろん、何十年も生きてきたかのような架空の記憶を持たされているので、5分前に生まれたことのあなたは気づいていない。あなたはラッセルやボストロムの手のひらの上で、踊らされているだけなのかもしれないのである。

意識は「手段」ではなく、「目的」だった

 進化の主要なメカニズムである自然選択は、生存や繁殖に有利な形質を進化させる。もしも、「足が速い」ことが生存や繁殖に有利ならば、「足が速い」という形質を進化させるわけだ。ここで、「生存や繁殖をすること」をざっくり「生きる」と表現すれば、「生きる」という目的のために「足が速い」という手段が進化することになる。

 意識が進化の過程で生じてきたことはほぼ間違いないが、意識にどういうメリットがあるのかは、よくわかっていない。

 「生きる」という目的のために「意識」という手段が進化するためには、「意識」に何らかのメリットがなければならないが、そのメリットがどうもよくわからないのだ。「柔軟な学習や行動を可能にする」など、いろいろなメリットが提案されてはいるが、決定的なものはないように思える。

 しかし、メリットとは別に、決定的なことが1つある。それは、「意識」には、自己保存に対する強烈な欲求があることだ。

 私たちにしても、生きたいと思うのは「生物学的に生きたい」のではなく「意識を存続させたい」からではないだろうか。「生物学的に生きる」ためには、必ずしも脳はいらない。脳が死んでも、心臓が動いていれば、生物学的には生きていることになる。でも、それは私たちの願いではないはずだ。むしろ、体は滅んでも、魂のようなものになって「意識を存続させたい」と願うのではないだろうか。

 もしかしたら、意識のメリットがよくわからない理由は、意識を手段と考えたからかもしれない。「生きる」という「目的」のために「意識」という「手段」が進化したのではなく、「意識」も「生きる」と同様に「目的」なのかもしれない。

 そうであれば、意識は、脳が一定の構造を持つと不可避的に生じてしまう可能性が高い。「生きる」ための手段としてではなく、つまり「生きる」ために有利とか不利とかに関係なく生じるためには、そう考えるのが自然だろう。その結果、宇宙の知的生命体が精密なシミュレーションを行うと、その住民にも不可避的に意識が生まれてしまうのかもしれないのだ。

 私たちは、宇宙の知的生命体が面白半分で行った無責任なシミュレーション上の住民かもしれない。シミュレーション上の住民である私たちは、「意識」のために進化して、宇宙の知的生命体を喜ばしているのだろうか。

 とはいえ、あまりそういうことを考えても、詮無いことかもしれない。たとえ、私がシミュレーション上の存在でも、たとえ5分前に生まれたとしても、別に何が変わるわけでもない。普段通りに生きていくしかないのだから。

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