「17年で社長が7人送り込まれる」→「挽回できず」 最善策を選ぶも駅前沈没、百貨店も全滅した「福島の官の街」の切ない顛末
かつて百貨店は「特別な場所」だった。しかし今、多くの街からその姿が消えつつある――。本連載では、百貨店が消滅した街を歩きながら、「なぜ消えたのか?」を街ごとに分析していく。
第8回は福島県福島市。かつて福島駅前に3つの百貨店が存在した。県庁所在地でありながら、なぜ全滅したのか。そこには各社の内部事情が絡み合っていた。
かつて福島駅前には、中合(なかごう)福島店、山田百貨店、ツタヤ百貨店の3つの百貨店があった。
前編では、再開発によって百貨店が駅前に集まり、街の賑わいの重心が入れ替わっていった経緯を追った。福島駅前通り商店街の副理事長・齋藤誠さんに当時の話を聞くと、「福島の百貨店といえば中合だね」と即答した。
屋上遊園地に連れて行ってもらったり、デパートの食堂で食事をしたりと、思い出を語る齋藤さん。駅前に百貨店が集結した、商業の黄金時代だ。
しかし、駅前に百貨店が集まったことの代償は大きかった。市自身も、駅前への商業・業務機能の集中が、かつての中心商業地の地盤沈下を招いたと認識していた。
では、百貨店側はそのとき何をしていたのか。資料をたどると、それぞれの店が別々の苦労と危機を抱えていたことが見えてくる。
■福島に根を張った3つの百貨店
中合の創業者は近江から来た商人だった。山田百貨店も伊達郡保原、ツタヤ百貨店も郡山を出自とする。福島駅前にあった3つの百貨店は、いずれも福島市外からやってきて、この街に根を張った店だった。
その後、中合は1978年にダイエーと、山田百貨店は1972年にニチイと、それぞれ資本提携を結ぶ。経営にも外部資本が入るようになった。
それでも、百貨店は地元側に立った。1982年、東口商店街近代化促進委員会が発足する。きっかけは、西口へのイトーヨーカドー進出だった。
会長は中合の横田理一社長、副会長は山田百貨店の菅野栄康店長。駅前で客を奪い合う2社のトップが、会長と副会長のペアでこの組織を率いた。当時のイトーヨーカドーは全国展開を進める勢いのある総合スーパーで、駅前の商店主たちは戦々恐々としていた。
福島に根を張った店として、街を守ろうとする。一方で、百貨店も一つの企業である。生き残るためには、自らの経営を守らなければならない。
■合理化が街から何かを減らしていく
その矛盾がよく表れているのが、中合だった。
1973年の駅前移転にかかった巨額の設備投資の返済にオイルショックが重なり、中合の資金繰りは急速に悪化した。取引業者への支払いが遅れ、「中合が危ないんじゃ」とささやかれるほどだった。
追い詰められた中合は野村総合研究所に経営分析を依頼し、流通大手と手を組むべきだとの提言を受け、ダイエーとの提携に至る。
提携後は、ダイエーから経営者が送り込まれるようになる。1986年に社長になった薩摩嘉弘も、大阪商科大からダイエーに入り、岡山高島屋の代表取締役を経て就任した人物だ。「福島の心をつかみたい」と語り、『アイ・ラブ福島、アイ・ラブ中合』を掲げた。
ただ、社長は短期間で入れ替わっていく。中合の歴史をまとめた『百年の商魂』によれば、1985年から2002年までの17年間で7人。2、3年おきに新しい経営者が送り込まれ、その時々の課題に対応していく体制だった。
店の運営にもダイエー流が浸透していく。1983年7月1日、中合は直営だった食堂を廃止し、ダイエー系列の食堂に切り替えた。地元商店街からは「マチの中心がなくなる」という嘆きの声が出たが、実施された。
当時、こんなジョークがあったという。『中合の包み紙をはがすと、もう一枚ダイエーの包み紙が出てくる』。業界誌も、ダイエー流で危機を脱するのはいいが、度が過ぎれば中合精神が失われかねない、地元の名門を育ててほしい、という趣旨で釘を刺している。
■山田とツタヤも、生き残りをかけていた
競合の2店も、何もしていなかったわけではない。
山田百貨店は1972年に総合スーパーのニチイと提携し、翌年の駅前移転後は「ダックシティ」のブランドで営業していた。その後、ニチイグループが店舗再編を進める中、1993年にダックシティ福島店は、福島駅前の平和ビルに店を構えたまま「福島ビブレ」へ転換する。
当時の店長は、それまでの店を「特徴のない、中高年女性向けの店だった」と振り返っており、若い客層を取り込むための業態転換だった。
ところが1996年、ビブレを駅から北へ徒歩10分ほどの曽根田へ移す計画が発表される。同時期、ニチイから社名を変更したマイカルグループは、市内で福島サティの新規出店も計画するなど、福島での店舗網を拡大していた。曽根田の新店舗は売場面積約1万7600平方メートル。1973年築の古い平和ビルでは実現できない規模だった。
駅前から見れば百貨店が一つ抜ける。しかしビブレ側から見れば、店舗を大型化し、生き残るための一手でもあった。
一方、老舗のツタヤ百貨店にも転機が訪れていた。創業家の社長が死去し、斎藤操夫人が後を継いだのを機に、1974年、高感度新型デパート「コルニエ・ツタヤ」へと業態を変えた。若い層と婦人層に照準を合わせ、駅前2強とは異なる、専門店を集めたビルという形で戦いを挑んだ。
それぞれが、その時の最善策を取っていた。
しかし、うまくはいかなかった。
1989年、中合は総工費約10億円をかけて全館リニューアルを行った。しかし、客がより上質な品揃えを求める中、リニューアル後も商品構成はベターゾーンにとどまり、富裕層向けには振り切れなかった。
実際、福島店単体の売上高は1992年度の175.2億円から、93年度169.2億円、94年度168.6億円と、じりじりと後退している(『百貨店調査年鑑』)。巨額を投じたリニューアルをもってしても、客足を引き戻すには至らなかったことになる。
同じころ、ビブレ(かつての山田百貨店)も高級路線を掲げる一方、実際の商品構成は10〜20代向けという迷走を続けていた。
ツタヤも苦境に立たされる。1998年に郊外へ福島サティが開店すると、テナントを引き抜かれ、対策チームを立ち上げた。しかし立て直すことはできず、2002年11月、負債13億円を抱えて破産する。この福島サティが、現在のイオン福島店である。
■この現実に街も気づいていた
1998年、中合の遠藤考社長はこう語っている。「福島は官の街で、郡山は民の街だ。郡山より活気がない最大の原因は、『他人任せ』『寄らば大樹の影』という風潮にある」(『とうほく財界』1998年3・4月号)。
百貨店の衰退要因として、モータリゼーションや郊外モールの進出がよく挙げられる。だが、遠藤社長はこれらを言い訳にしなかった。それらはすでに前提としてあるもので、それ以前の構造的な問題こそが本質だと言い切っている。
遠藤社長が名指しで悪手と評したのが、大学と病院の郊外移転だった。福島大学は1979年、中心部から市南部の金谷川地区へ移転。福島県立医科大学も1988年に中心部から約10キロ離れた南部郊外の光が丘地区へ移った。
学生らが街で買い物や外食をする機会が減ったことも、中心部から人を遠ざける一因になったと考えられる。
2001年には、当時の吉田修一市長が「四年制私大が一校もなく、県都として恥ずかしい」と語ったことも紹介されている。福島の「官の街」評は、遠藤社長一人の見立てではなかった(『とうほく財界』2001年1・2月号)。
遠藤社長はさらに、空洞化への処方箋として「都心に居住空間をつくるべきだ」と提言していた。人が住めば、街は自然と賑わうという発想だ。この提言が形になるまで、この後さらに20年以上を要することになる。
■誰も間違えていなかった
最終的に、ビブレ(かつての山田百貨店)はマイカル(旧ニチイ)の経営破綻を受けて「さくら野百貨店」となったが、2年ほどで閉店した。
中合も、東口再開発に伴う辰巳屋ビルの賃貸借契約満了を理由に、2020年8月末で閉店。再開発後のビルへの入居も検討されたが、工事期間中の休業や仮店舗では採算が見込めず、断念したという。
中合がダイエーと提携したのも、山田とツタヤが業態を変えたのも、それぞれの会社にとっては生き残るための判断だった。
福島市もまた、何もしてこなかったわけではない。県都として公共施設や医療、教育などの都市機能を整えてきた。だがその選択が、大学や病院を郊外へ追いやり、駅前の求心力を徐々に削っていくことにもなった。
百貨店が消滅した理由を、「福島市が衰退したから」と一言でまとめることはできない。街も店も、その時々で必要な選択をしてきた。しかし、その判断の積み重ねが、結果として百貨店を支える商業環境を弱めていったのかもしれない。
福島駅前通り商店街の副理事長・齋藤さんは、こう振り返る。
「まさか中合がなくなるとは思わなかった。でもなくなった今、次も百貨店を、とは思わない。せめてみんなが集まれる場所を願っています」
