クマスプレー「誤使用」に警鐘 「テントに塗布」はむしろ逆効果 クマは興味津々、近寄るケースも
クマによる人身事故の増加から、クマを撃退する「クマスプレー」を所持する登山者が増えている。だが、使い方を誤ると、かえって危険を招きかねないという。
■遠くからヒグマにスプレー噴射
クマを撃退する「クマスプレー」。クマを見かけて、警告の意味で噴射した。そんな人もいるかもしれない。だが、その使い方は完全に「間違っており、むしろ危険」だという。
今年7月、登山者がヒグマに向かってクマスプレーを噴射しながら通りすぎる様子が撮影された。北海道・大雪山系白雲岳の山頂付近だ。
HTB北海道ニュースによると、撮影者は数百メートル前方で登山道わきを歩くヒグマを見つけた。ヒグマが登山道から立ち去るのを他の登山者と一緒に待っていると、その登山道を進んでいく男性の姿が目に入った。
「何事もなければいいんだけれど」と、つぶやく撮影者。
ところが、男性はヒグマに20~30メートルまで近づいたところで、ヒグマに向かって右手を突き出し、手にしていたクマスプレーをシュッと短く噴射したのだ。
■クマがその場を離れず登山を中止
「おい、おい、おい!」と撮影者は声を上げた。クマを刺激しかねない行為だからだ。
クマスプレーは、クマから5メートルほどの距離からの使用が推奨されており、これほど離れていては撃退効果はない。だが、クマは鼻が利く。嗅覚は犬の6倍ともいわれる。
映像に映ったクマは、スプレーを噴射した男性をじっと見ていた。男性はさらに数回、スプレーを噴射しながら、何事もなく現場を通り過ぎた。
他の登山者は、クマがこの場所から離れず危険だと判断し、登山を中止したという。
■「刺激臭」に興味か
なぜクマはこの場所から離れなかったのか。
ヒグマ学習センター代表の前田菜穂子さんによると、現場に残留したクマスプレーの刺激臭が、「クマの興味をひいた可能性がある」と言う。クマはにおいに対して好奇心が強い動物だからだ。
「クマは知らないにおいをかぐと、それが何であるか、確かめにやってくる習性があります。そのにおいが強烈であるほど、引きつけられるのです」(前田さん)
前田さんは、学芸員として「のぼりべつクマ牧場」の博物館(北海道登別市)に勤めていた際、ヒグマの忌避剤について研究を重ねた経験がある。
前田さんによると、世の中に流布するクマに関する言説には、実態とかけ離れたものもあるという。
■たばこやオオカミの糞を嫌うハズが…
たとえば、たばこ(ニコチン)、ヘビ、オオカミの糞や尿などは、クマが嫌がるにおいを発するといわれてきたが、どれもクマを近づけない効果は確認されていない。
「たばこには興味を示して、食べてしまった個体もいたくらいです」(同)
強いにおいがクマを遠ざけるどころか、かえって引き寄せることすらある――。
極めつきはクマ用として販売されていたある忌避剤だ。クリーム状の油性製品で、このクリームを対象物に塗りつければ、クマを遠ざけることができるとうたわれていた。
「ヒグマに試してみると、嫌がるどころか、むしろ忌避剤に寄ってきた。クリームを体中に塗りたくって、陶酔しているような状態になったんです」(同)
現在、においでクマを追い払う効果が確認されているのは林業用途の「カラジンS」(サンケイ化学・鹿児島市)など、ごく限られた製品しかない。硫黄臭のする薬剤を樹木の根元に塗布して、クマが木の皮をはぐ「クマハギ」の被害を軽減するもので、人身被害を防ぐ製品ではない。
■忌避剤としての効果はない
前田さんが特に懸念するのは、トウガラシ成分(カプサイシン)を用いた「忌避剤」と称する商品がいくつも出回っていることだ。「カプサイシンの強力な刺激臭でクマを寄せ付けません」などと記されている商品もある。
クマ忌避剤のメーカーは、クマが強いにおいに興味を示すという習性を把握したうえで、開発と検証を行っているのだろうか。
カプサイシンはクマを撃退するクマスプレーの成分でもあり、クマよけ効果は実証済みと考える人も多いだろうが、効果を発揮する仕組みが違う。
クマスプレーで霧状に噴射されたカプサイシンは、目や鼻、のどの粘膜、皮膚に付着して感覚神経に作用し、強烈な痛みを感じさせてクマを追い払う。世界初のクマスプレー「カウンターアソールト」もその仕組みで、前田さんは開発に協力、北海道のヒグマでも試作品を試した経験がある。
だが、カプサイシンの刺激臭自体にクマ忌避剤としての効果は、「ない」のだという。
「カプサイシンの強烈なにおいがしたところで、クマには痛くもかゆくもないのです」(同)
興味深い海外の検証データがある。
■テントにスプレー散布は逆効果
米国とカナダの大学の研究者は、1985年から2006年にかけてアラスカ州でクマスプレーをヒグマとクロクマに対して使用した事例81件を検証した。そのうち、11件は誤用例で、クマから守りたい対象物にスプレーを散布していた。この11件はクマを遠ざけるのにすべて失敗したという。うち2件は散布によって、むしろクマが強く引き寄せられたと報告されている。
アラスカ州政府はキャンパーらにこう警告する。
「テントなどに、クマを寄せつけないためにクマスプレーをあらかじめ吹きかけておくのは逆効果。刺激臭に興味を持って、かえって近づいてくる」
日本ツキノワグマ研究所の米田一彦代表も、こう語る。
「においでクマを追い払う実験はこれまで多く行われてきましたが、すべて失敗に終わっています。したがって、においでクマを追い払うという触れ込みで、科学的根拠のある商品はないと考えています」
■クマの学習能力は想定以上
ただし、北海道・知床財団に15年間勤めた後、現在も道内でヒグマ対策の実務に従事する石名坂豪さんは、こう指摘する。
「臭気と関連づけて、クマが命の危険を感じるような強烈な経験を付加できるのであれば、結果は違ってくる可能性があります。『特定のにおい=危険』と、クマに学習させる(忌避学習づけ)ことです」
実際、北海道・知床では、人に接近するヒグマに対して非致死性の「ゴム弾」を銃で発射する追い払い・忌避学習づけが行われていた。被弾したヒグマは痛みとともに、火薬のにおいを記憶し、人に近づかなくなることが期待されている。
だが、ことはそう簡単ではないという。
「クマは学習能力が高い。銃を所持した対策員だけを忌避し、観光客らには無警戒なクマもいる。ゴム弾の有効射程(25~30メートル以下)を学習したのか、対策員が接近しても射程外の距離(約50メートル)をキープして、それ以上逃げない事態も経験しています」(石名坂さん)
つまり、「命の危険」や「痛み」の記憶を人間の望む形でクマに学習させることは簡単ではないということだ。
クマスプレーを誤って使えば、臭気でクマを呼び寄せてしまうことすらある。また、臭気でクマを追い払うという触れ込みのクマ忌避剤は、かえってクマを引き寄せてしまう恐れすらあることも知っておきたい。
