ヒトの血液を「蚊を殺す毒」にする薬を発見、少量で最大16日間持続、新たなマラリア対策へ
希少な遺伝性疾患の薬「ニチシノン」が殺虫剤に、イベルメクチン上回る効果
マラリアによって亡くなる人は、世界で毎年60万人以上にのぼる。マラリアは蚊によって媒介される数多くの致命的な疾患のひとつだが、もしわれわれの血液を、蚊にとって有害なものに変えられるとしたらどうだろう? まるでSF小説のように聞こえるかもしれないが、実はさほど荒唐無稽なアイデアではない。
2025年3月26日に学術誌「Science Translational Medicine」に掲載された研究により、「ニチシノン」という薬には、人間の血液を蚊にとって極めて有毒なものに変える作用があることがわかった。この薬を比較的少量しか服用していない患者の血液でも、それを摂取した蚊は、数時間以内に死んでしまうという。さらに驚くべきことに、その効果は、ヒトへの最初の投与から最大約16日間にわたって持続する。
注意したいのは、ニチシノン自体にマラリア感染を防ぐ効果があるわけではないという点だ。しかし、産卵する前の蚊を殺してしまうことにより、この薬は病気を媒介する蚊の数を減らし、感染の連鎖を断ち切る可能性を持っている。
この方法のポイントは、個人がマラリアに対する免疫を持つことではなく、集団免疫を確立するワクチンと同じく、地域社会が協力して感染拡大を食い止めることにある。
研究者らは、ニチシノンは蚊が媒介する病気を完全に根絶するためのツールではないが、殺虫剤入りの蚊帳、マラリア予防薬、ワクチンといったその他の戦略と組み合わせることで、有効な対策になり得ると述べている。
今回の新たな手法は、ほかの治療法に対して蚊がすでに耐性を持っている地域で特に大きな効果を発揮する可能性がある。
「この手法で注目すべきは、希少な遺伝性疾患の治療薬として、すでに米食品医薬品局(FDA)の承認を得ている薬を使っている点です」と、論文の共著者で、寄生虫学者・媒介生物学者のアルバロ・アコスタ・セラーノ氏は述べている。
ニチシノンの数奇な成り立ち
オーストラリア原産のブラシノキ属の植物に含まれる毒素から着想を得たニチシノンは、もともと除草剤として使うことを想定して開発された。この薬は、チロシンというアミノ酸を代謝する経路に働くことで効果を発揮する。
高チロシン血症1型やアルカプトン尿症などのまれな遺伝性疾患は、体内でチロシンが代謝される途中にできる毒性のある物質を分解できないことで発症する。ニチシノンは、チロシンが代謝される経路をそれより上流で止めてしまうことで、毒性のある物質が体にたまるのを防ぐ。
ニチシノンが有効な治療法になり得ることが判明すると、FDAは1992年にヒトへの使用を承認した。
「この薬があるからこそ、高チロシン血症1型の子どもたちは命をつなぐことができています」とアコスタ・セラーノ氏は言う。「完璧な解決策ではありませんが、ほかに方法がないのです」
ニチシノンはさまざまな副作用をもたらすが、これらの病気の患者が服用する量は一般に、蚊の駆除に必要となる量よりもはるかに多いという。
2016年には、ブラジルの研究者マルコス・ステルケル氏とペドロ・オリベイラ氏が、ハエや蚊などの吸血性の昆虫は、血を吸ったあとに体内に大量に発生するチロシンを素早く処理する能力を進化させていることを発見した。
それよりもさらに重要な発見は、そのプロセスを妨害した場合、蚊は死んでしまうということだった。
両氏は、当時英リバプール熱帯医学校にあったアコスタ・セラーノ氏の研究室が、同じく寄生虫を媒介する吸血性昆虫であるツェツェバエの研究に取り組んでいることを知った。そこで、ニチシノンが何かの役に立つ可能性があるかどうかを確かめるため、アコスタ・セラーノ氏に連絡を取った。
こうして、ニチシノンは植物を枯らす薬から子どもたちを救う薬となり、さらにはマラリアという恐ろしい病に対抗できる可能性のある薬へと変貌を遂げた。
マラリア問題に万能薬なし
ニチシノンはすでに厳格な安全基準をクリアしているため、蚊が媒介する病気への対策として転用する場合には、承認手続きが少なくて済むだろうと、現在は米ノートルダム大学に在籍するアコスタ・セラーノ氏は言う。
「これは非常に興味深い研究です」と語るのは、米ジョンズ・ホプキンス大学ブルームバーグ公衆衛生大学院で蚊が媒介する感染症を研究する分子生物学者のジョージ・ディモプロス氏だ。
まず、「蚊が媒介する疾患の対策にニチシノンが有効かもしれないという発想が非常に斬新」だと、氏は述べている。また、今回の研究では、同じくマラリアを広める蚊の対策に使われ得るイベルメクチンと比べているが、ニチシノンの方が副作用は少なく、効果は高いように見える点も興味深いという。
当然ながら、ディモプロス氏はいくつかの欠点も指摘している。
「マラリアは貧困の病です。高価な対策ではうまくいかないでしょう。このような、感染症から個人ではなく集団を守る介入方法の場合はなおさらです」
希少な病の薬であるニチシノンは、まだ非常に高価であり、大規模な導入には適していない。それでも、この研究に多くの関心が集まれば、ニチシノンのコストは最大80%下げられるだろうと、アコスタ・セラーノ氏は考えている。
このほか、マラリアの予防としては間接的なものであるという点も、普及の妨げになる可能性がある。「自分を直接守ってくれるわけではない薬を飲むよう人々を説得するのは簡単ではありません」と、ディモプロス氏は言う。
しかし将来的には、ニチシノンと抗マラリア薬とを組み合わせて使うことが可能になるかもしれないと、氏は述べている。また、近隣の家畜にニチシノンを投与し、蚊を引き寄せる“毒入りの餌”として使うことで、対策の有効性を高めるという手法も考えられる。
蚊は花の蜜も食べるため、科学者らは、殺虫剤入りの蜜を詰めた袋を使った実験も行っている。殺虫剤には、ほかの受粉媒介動物を危険にさらすことなく、蚊だけを標的にできる可能性があるものを使っている。
「つまり理論上は、蜜入りの袋を用いて蚊をこの薬に触れさせることもできるわけです」と、ディモプロス氏は言う。「必ずしも人間に投与する必要はありません」
そして、蚊の駆除においては、耐性がつくことが常に懸念される。しかし、蚊がこの薬に対する耐性を持つようになるかどうかは、時間がたってみなければわからない。
ニチシノンが今後どのような役割を果たすにせよ、アコスタ・セラーノ氏もディモプロス氏も、各地域の状況に合わせた多角的な対策の一環として使うのが最も効果的だろうと考えている。
ディモプロス氏は言う。「地域によって、薬とワクチンとを組み合わせて効果が上がることもあれば、殺虫剤の散布や、遺伝子を組み換えた蚊などの新しい技術の方が有効な場合もあります。言うなればこれは、個人のニーズに合わせた治療を行う『個別化医療』のようなものなのです」
「マラリア問題を解決する万能の方法はありません」と氏は言う。「そして、おそらくは今後も登場することはないでしょう」