なぜ「日本兵2万人超」が玉砕したのか…米軍が硫黄島の「滑走路」奪取にこだわった事情

なぜ「日本兵2万人超」が玉砕したのか…米軍が硫黄島の「滑走路」奪取にこだわった事情

 なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。

 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が発売たちまち7刷と話題だ。

 普段ノンフィクションを読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。

硫黄島の滑走路と95%戦死の背景

 硫黄島の戦い──それはすなわち“滑走路を巡る戦い”だった。

 歴史に「もしも」はない。しかし、仮にこの島に滑走路がなければ、日米両軍が激突する地上戦は勃発しなかっただろう。戦時中、硫黄島に隣接する父島や母島にいた僕の祖父が生還できたのは、父島にも母島にも滑走路整備に適した平地がなかったからだと言える。

 1944年夏。米軍は日本軍から奪取したサイパンに、日本本土爆撃の一大拠点を築いた。サイパンから本土までの直線距離は二千数百キロ。硫黄島はサイパン―東京間の直線上のちょうど中間にある。米軍が硫黄島の滑走路を奪う利点は大きかった。

 利点の一つは爆撃機の護衛だ。護衛戦闘機を硫黄島に多数進出させ、サイパン発の爆撃機をここから護衛させれば、より低空からの本土空襲が可能になる。それに伴い、爆撃の精度を格段に向上させられるようになる。

 二つ目の利点は、爆撃機や搭乗員の損失の抑制だ。本土爆撃の作戦の帰路、サイパンに辿り着けず、海に着水したり、墜落したりした機体は多かった。そのため、米軍は搭乗員と機体の損失を防ぐため、緊急着陸できる滑走路が必要だった。それに適していたのが硫黄島だった。

 このほか、硫黄島を燃料補給拠点とした場合、サイパン発の爆撃機は燃料を半減できる一方、本土に投下する爆弾の積載量を格段に増やせるという利点もあった。

 こうした米軍側の思惑を、島を守る兵士たちは知っていた。兵士だけでなく、一般国民も分かっていた。新聞が盛んに米軍側の狙いを報道していたからだ。だからこそ守備隊は95%が戦死するまで戦ったのではないか、との見方もある。

 1945年3月26日。全滅間近の守備隊が最後の総攻撃で出撃した先は、すでに米軍制圧下にあった飛行場方面だった。守備隊は最後の最後まで米軍による本土爆撃を妨げようとしたのかもしれない。

「硫黄島はB29の天国」

 『戦史叢書』によると、硫黄島の航空基地化は、日本海軍が1933年に南部で飛行場を整備したことが起源だ。その後、戦局悪化とともに滑走路の拡充が進んだ。最終的には島南部の「千鳥飛行場」のほか、中央部に「元山飛行場」、その北側に「北飛行場」を整備した。

 1945年2月19日に硫黄島に上陸した米軍は、日本側守備隊との戦闘と並行して、重機を使った元山飛行場の拡張工事に着手した。B29が離発着するためにはより長い滑走路が必要だったからだ。

 その滑走路にB29が初着陸したのは米軍上陸から2週間後の3月4日だった。これを皮切りに硫黄島は、日本本土爆撃作戦で被弾・故障したB29の緊急着陸地となった。終戦までの着陸数は2000機を超えたとされる。「硫黄島はB29の天国」。そう記された米側戦記もある。

 占領後の硫黄島には、戦闘機P51が多数進出した。硫黄島発のP51の本土攻撃は一つに「武蔵野空襲」がある。

 東京都武蔵野の工場地帯を狙った爆撃。硫黄島守備隊が「散ルゾ悲シキ」との訣別電報を残して玉砕してからわずか10日余り後のことだ。

 米軍側記録によると、B29による再三の武蔵野空襲は当初「成果貧弱」「成果不十分」と評価され続けていた。それが硫黄島陥落を境に「成果優秀」に転じた。硫黄島発のP51の護衛により、従来よりも低い高度からの昼間爆撃が可能になったため、とされる。

 硫黄島の戦闘機部隊は終戦までの4ヵ月で1700回以上、出撃した。硫黄島守備隊の最高指揮官栗林忠道中将は玉砕間際の硫黄島からこんな電報を本土に発していた。

 「(島の)要地(航空基地)ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘサル所ニシテ幾重ニモ御詫申上ク」

 栗林中将の予見は死後、的中したのだった。

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