ノーベル生理学・医学賞 ペンシルベニア大学 カタリン・カリコ特任教授(68)とドリュー・ワイスマン教授(64) 新型コロナウイルスワクチンに欠かせない技術を開発

ノーベル生理学・医学賞 ペンシルベニア大学 カタリン・カリコ特任教授(68)とドリュー・ワイスマン教授(64) 新型コロナウイルスワクチンに欠かせない技術を開発

今年のノーベル生理学・医学賞にファイザーなどの新型コロナウイルスワクチンに欠かせない技術を開発したペンシルベニア大学カタリン・カリコ特任教授(68)らが選ばれました。

生理学・医学賞に選ばれたのは、ドイツ・ビオンテック社の顧問で、アメリカ・ペンシルベニア大学のカタリン・カリコ特任教授(68)と同じくペンシルベニア大学のドリュー・ワイスマン教授(64)です。

カリコさんとワイスマンさんはファイザーとモデルナ製ワクチンで採用されているmRNA=メッセンジャーRNAワクチンを長年、共同で研究してきました。

mRNAワクチンはウイルスなどの代わりにウイルスの設計図を体内に入れることで抗体を作るもので接種時に予防対象の病気にかかるリスクや遺伝子への影響がないとされています。

従来のmRNAは体内で異物と認識され炎症が起きてしまいましたが、カリコさんらはmRNAの一部を組み換えることで異物と認識されなくなることを発見。

さらに、組み換えにより抗体を作る働きが大幅に増進することも発見しました。この技術が確立されていた事が、新型コロナワクチンの迅速な開発や大量供給を可能にしました。

「金メダリストの母」であり「世界の科学者」 ノーベル賞のカリコ氏

 今年のノーベル生理学・医学賞の受賞者は2日、生き物の遺伝子の一部「メッセンジャー(m)RNA」を使ったワクチンの新時代の基礎を築いたカタリン・カリコ米ペンシルベニア大特任教授(68)らに決まった。共産主義体制の東欧ハンガリーから米国に渡った研究者で、その研究人生は平たんではなかった。

 ◇ハンガリーの田舎町育ち

 カリコさんは1955年にハンガリーで生まれ、「科学者など見たこともない」という田舎町で育った。ハンガリーの名門大学で生化学の博士号を取得し、研究者として歩み始めた直後に最初の転機が訪れた。

 経済の行き詰まりなどから海外の学会に出席することが認められず、研究資金も途絶えた。既に結婚して長女がいたカリコさんは、30歳で米国に研究拠点を移す決断をする。

 車を売って闇市で両替した900英ポンドを長女のぬいぐるみに隠し、片道チケットで「鉄のカーテン」を越えた。当時は一定額を超える外貨の持ち出しが禁止されていた。米国の大学で研究職に就くと、研究者として生き残るために「地獄のように働いた」と振り返る。

 しかし、mRNAを治療に役立てようとするカリコさんの発想は評価されず、降格も経験した。外部からの研究資金を得られず、研究費を同僚に依存する日々が続いた。

 「いつか成功すると信じて、共に前に進む同僚たちの存在」が不遇の時代を支えたという。その一人が、共同受賞が決まった米ペンシルベニア大教授のドリュー・ワイスマンさん(64)だった。

 ◇出会いはコピー機前

 同大の研究棟のコピー機の前で知り合い意気投合した2人は、共同研究を続けて20年以上になる。今回の受賞につながった2005年の共著論文は、mRNAを体内に投与する際に起きる免疫反応を抑制するメカニズムを明らかにした。

 カリコさんが「早すぎた」と言って笑うように、発表当時はほとんど注目されることはなかった。

 ところが、その成果はバイオベンチャーが主導するmRNA医薬の開発競争の号砲を鳴らす。13年にカリコさんを迎え入れたドイツのバイオ企業「ビオンテック」は、その先頭集団に立つ。

 同社が米製薬大手「ファイザー」と共同開発した新型コロナウイルスワクチンの治験で高い有効性が確認されると、カリコさんは米国の自宅で、好物のピーナツチョコを箱ごと抱えて1人ひそかにお祝いした。

 渡米時には、ワクチン開発が念頭にあったわけではないという。免疫学者のワイスマンさんとの出会いがなければ、世紀の発見は生まれていなかったかもしれない。カリコさんは「科学は積み重ねの上に成り立っています。私たちの研究はいつ、どこで役に立つかわかりません」と話す。

 ◇新型コロナの教訓とは

 新型コロナのパンデミック(世界的大流行)の教訓とは何か。

 「基礎科学の重要性」「科学における多様性、特に女性の存在」

 カリコさんに尋ねると、イノベーション(変革)につながる多様性の大切さを挙げた。

 異例のスピード開発に成功したビオンテックには、80カ国以上の従業員が集まる。カリコさんは「多様な立場からの建設的な批判がより良い成果につながる」と言って、言葉をつないだ。「指導的な立場にもっと女性が増えるべきです。科学者を目指す女の子も増えてほしい。とても楽しい仕事です」

 幼少期にカリコさんと共に米国へ渡った長女のスーザン・フランシアさんは、ボート競技の米国代表としてオリンピック2連覇を果たした。スーザンさんは「金メダリストの母親」から「世界を救う科学者」として有名になったカリコさんについて、米メディアで語っている。

 「ボート競技は、チームのほとんどが後ろを向いているので、いつゴールが来るか見えません。母も同じでした。一つ一つの積み重ねが、達成したいことに近づいていると信じることが大事でした。今、振り返ると本当にその通りになったのです。やったね、お母さん」

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