迫る「黒い怪物」、関東大震災で発生した「火災旋風」 東日本大震災でも目撃 現代に通じる避難の課題は

迫る「黒い怪物」、関東大震災で発生した「火災旋風」 東日本大震災でも目撃 現代に通じる避難の課題は

1923年9月1日の関東大震災の発生直後から同時多発的に火災が発生した。大震災による死者・行方不明者約10万5000人のうち火災による犠牲者は約9万2000人と大半を占める。火災の被害はなぜここまで拡大したのか。現代にも通じる避難の課題を探った。

「雲か煙か、不気味な音とともに」

新型コロナウイルスの影響で4年ぶりの開催となった7月29日の隅田川花火大会。夜空に次々と咲く大輪を眺めようと、東京都墨田区の都立横網町公園は観客でごった返した。この公園内にあった旧陸軍被服廠(ひふくしょう)跡は、100年前にも多くの人々が押し寄せた場所だった。

「雲か煙か、真っ黒く盛り上がって不気味な音とともに、こちらの方へ押し寄せてくる」「この黒い怪物みたいなものに体を包まれてしまった。体が包まれたと思ったら、宙に浮き上がり、どのくらい吹き上げられたのか、ハッと思うとたんに地上に落ちた」。被服廠跡の生存者らの証言集「一二九(ひふく)会十年の歩み」(2000年刊行)には、火災旋風にのまれた男性のそんな言葉が並ぶ。

「黒煙が小山のような高さまで」

軍服などを作る被服廠があった空き地は東京ドーム1.5個分に相当する約6.6ヘクタールの広さがあったが、火災に追われた約4万人で埋め尽くされた。内閣府が2006年に公表した中央防災会議の報告書などによると、家財道具を積んだ大八車もあり、1人当たりのスペースは1畳以下で、身動きが取れない状態だった。

大震災による東京府(現・東京都)の死者約7万人の5割超を占める3万8000人以上が亡くなった。ここまで犠牲者の数を押し上げた要因は「火災旋風」と呼ばれる現象だった。

火災旋風は火災時に発生する竜巻状の渦だ。炎や煙の渦で、家財道具などを巻き込み、トタンや瓦を空中に舞い上げた。中央気象台(現・気象庁)が震災翌年にまとめた「関東大震災調査報告気象編」は、目撃した男性の証言を掲載。男性は「黒煙が小山のような高さまで渦巻き、そのものすごさは言葉を失うほどだった」と振り返っていた。

東日本大震災でも目撃

「あんな大火、初めて見た。煙が立ち上がって、渦を巻いているようだった」。火災旋風は2011年3月の東日本大震災の被災地でも複数の目撃情報がある。

気仙沼・本吉地域広域行政事務組合消防本部(宮城県気仙沼市)の元消防長、菊田清一さん(75)は火災旋風を引き起こすとみられる渦を目にした一人だ。

3月14日夜に気仙沼市内で火災が発生し、翌15日夜に鎮圧するまで3.6ヘクタールが焼けた。出火原因は不明だが、空気が乾燥する中、津波でがれきなどが押し寄せ、延焼しやすい状況にあったとみられる。

菊田さんが目撃したのは15日午前5時半ごろだった。約40年、消防職員としてさまざまな火災現場の調査に携わった末に退職していたが、そのときの炎の勢いはすさまじかった。約500メートル離れた橋からカメラに1枚収めるのが精いっぱいだった。

高さ230メートルに達したか

その後、消防庁消防研究センターの篠原雅彦・主幹研究官による現地調査に協力する中で、目撃したのは火災旋風を引き起こす渦だった可能性があると知った。

菊田さんが撮影した1枚が重要な証拠となった。篠原さんによると、火災旋風は炎を含む火柱状の渦と含まない黒煙状の渦がある。篠原さんは写真の右側に映る煙が2回渦を巻いていることに着目。目撃した消防職員は「炎が巻いていた」と証言をしており、写真のような煙の渦に炎が巻き込まれて発生した火災旋風だった可能性もあるという。

調査の結果、火災旋風はいずれも最大で高さ230メートル、幅130メートルに達したとみられる。菊田さんは「火災旋風は100年前の話ではない。今の時代でも起こりうる。災害は常に想定外の事態が起きると考えて、備えないといけない」と語った。

東京で110個、横浜で30個目撃

被服廠跡では複数の火災旋風が目撃され、黒煙状だったとの証言が多く残る。目撃された一つは、隅田川を挟んだ対岸の大規模火災の風下で発生し、川を渡って被服廠跡を襲った可能性があり、上陸したときには炎を含まない渦だったと篠原さんは考えている。

国の震災予防調査会が関東大震災の2年後にまとめた報告などによると、被服廠跡以外でも東京で110個、横浜で30個の火災旋風が目撃されている。横浜を襲った火災旋風の一つは2時間以上にわたって約2キロ移動したとされる。そして、東京市(現・東京都中心部)で全世帯の62.3%にあたる約30万世帯、横浜市中心部で63.3%の約6万2000世帯が全焼した。

当時は自治体が指定した火災や地震の避難場所がなく、空き地や公園に住民が押し寄せた。上野公園(約83.5ヘクタール)には約50万人、浅草公園(約31.7ヘクタール)には約7万人が身を寄せるなど計100万人以上が避難した。

生存者の証言によると、周辺住民は火災が起きたら被服廠跡に逃げるとあらかじめ決めており、安全な場所という共通認識があった。警察官も被服廠跡に住民を誘導した。

悪条件が重なった被服廠跡

「火災旋風はたくさん発生し、どこも家財道具などの可燃物が多かったが、大量の犠牲者が出たのは被服廠跡だけだった。人が集まる避難場所は必ず安全でなければいけなかったのに」。東大の広井悠教授(都市防災学)は教訓をこう語る。

当時は被服廠跡地も含め、木造密集住宅地に囲まれ、周囲の火災から伝わる熱の輻射熱に耐えられない危険な避難場所も多かった。上野公園は避難者の密度が高かったものの敷地に並行して1方向に延焼が進み、浅草公園は密度が低く樹木が防火壁の役割を果たしたこともあり被害を免れた。被服廠跡地は密度が高いうえ、風向きで3方向から火災が襲うなど悪条件が重なった。

関東大震災以降、輻射熱を考慮した避難場所の整備や指定は進んだ。しかし、広井教授は「当時に比べて避難場所は安全になっている」とハード面での整備を評価する一方、避難のあり方や地域の初期消火といったソフト面での課題を問題視する。

地域の初期消化力は低下?

地震によって同時多発火災が起きた時、どう避難したらいいのか。多くの人が地震火災からの避難を熟知していないとみられ、「火災は消防が消してくれる」という考えが浸透している。

ただ、地震による被害や混乱で交通渋滞が起き、消防が駆けつけらない可能性がある。また、火災が広がった場合の地域による消火活動の備えは十分ではないとみられる。地域コミュニティーの消防団員のなり手不足やコミュニティーの希薄化が一因とされ、東日本大震災や熊本地震など近年の大規模地震では、消防が到着する前の初期消火が少なかった。広井教授は「100年前と現代都市を比べ、常備消防は向上したが地震時は限定的。また、地域の初期消化力は落ちているかも知れない」と考えている。

「現代でも都市は燃える」

内閣府が13年に公表した首都直下地震(マグニチュード7.3)の被害想定では、火災で約1万6000人が死亡し、41万2000棟が焼失するとされた。

それぞれの避難場所で受け入れられる避難計画人口は、周辺の昼間人口と夜間人口の多い方をもとに算出されている。

広井教授によると、平日の帰宅時間帯に大規模地震が起きると、計画人口に想定されていない別の地域から移動してきた帰宅困難者が発生する恐れがある。さらに同時多発火災が起きると、東京都心の避難場所では予定していた計画人口を超え、スペースに余裕がなくなり輻射熱から守ることができなくなる可能性もある。

広井教授は「現代でも都市は燃える。消防が遅れて消してくれない場合はどう延焼防止できるか考え、日ごろから避難場所を把握し、どう逃げるか確認するようにしてほしい」と呼びかける。

🍎たったひとつの真実見抜く、見た目は大人、頭脳は子供、その名は名馬鹿ヒカル!🍏