7歳で見た地獄「伝えねば」 北海道の85歳、「最後かも」と長崎へ

7歳で見た地獄「伝えねば」 北海道の85歳、「最後かも」と長崎へ

 長崎原爆の日の9日、札幌市在住の被爆者、宮本須美子さん(85)は、平和祈念式典の縮小開催で、北海道の遺族代表として参列することができなかった。それでも原爆がさく裂した時刻の午前11時2分に合わせ、例年会場になる長崎市の平和公園を訪れ、平和祈念像の前で静かに黙とうした。「最後かもしれない」との思いで訪れた長崎。「生きたかったけど一瞬にして絶命した人たちの犠牲の上で生かされている。こんなことは二度とあってはだめだと私たちには伝える義務がある」と語った。

 ◇父の死きっかけで長崎へ、そして被爆

 1945年、7歳だった宮本さんが長崎市に来たきっかけは父の死だった。名古屋市に暮らしていた同年1月3日、航空機工場に勤務していた父鍛冶増市(かじ・ますいち)さん(当時42歳)が空襲で犠牲に。3月に長崎市戸町にある母久子さんの実家に身を寄せたのだ。

 8月9日午前、空襲警報が鳴り、母と姉妹と防空壕(ごう)に避難し、夕方まで息を潜めていた。爆心地の南約6キロ。何が起きているのかはっきり分からなかったが、市の中心部から髪の毛が焼けたり服が焦げたりした人たちが避難してくる様子が見えた。午後6時ごろに帰宅した兄から「市内が火の海になっている」と聞いた。兄は山に壕を掘る勤労奉仕中、閃光(せんこう)の後に黒い雲が迫ってきたのを見て、火の手を避けながら帰ってきたという。

 「米軍が上陸する」。原爆投下から2日後にそんなうわさが広がった。「殺されるよりも、大変だけど歩いて行こう」。母は避難を決め、翌日出発した。目指したのは爆心地の北西約12キロにある亡き父の実家。2歳の妹を背負った母が食料を積んだ乳母車を押し、兄は大量の水や家財道具を積んだ大八車を引いた。宮本さんもランドセルを背負って徒歩で約30キロの道のりを歩いた。

 夕方、爆心地近くを通った。「はぐれたらどうなるか分からない」と乳母車をつかんで歩くのに必死だった宮本さん。それでも猛烈な悪臭ははっきり覚えている。爆心地の北約500メートルの橋を渡った時、浦上川の土手でたくさんの人が亡くなり、川に遺体が浮いていたのを横目で見た。峠で野宿をして一晩を明かし、なんとかたどり着いた。

 戦後、結婚した夫の仕事の都合で各地を転々とし、25年ほど前から札幌で暮らす。一緒に避難した姉は乳がんや大腸がんを患って50歳で逝き、宮本さんの次女も乳がんなどで49歳の時に死去。原爆の影響ではないかとも感じる。

 ◇被爆仲間が死去「自分が伝えねば」

 北海道被爆者協会に入ったのは20年ほど前。「7歳のことではっきり覚えていない自分が話してもいいのか」と当初は証言活動に後ろ向きだった。だが、仲間の被爆者が次々と亡くなり、「二度と戦争が起こらないよう、自分が伝えなければ」と、10年ほど前から小学校などで体験を語るようになった。

 今年3月、長崎にいた兄が92歳で亡くなり、「式典は毎年あっても、高齢で次回参加できるか分からない」との思いがより強くなった。78年前は幼く、川面の遺体をみても何が起きているのか理解が追いつかなかった。今、ロシアによる侵攻で攻撃を受けたウクライナの街をテレビで見ながら「当時の長崎も悲惨な状況だった」と痛感する。

 「それぞれの国が核兵器を持ち、脅し合っている世の中を変えなくては。話し合い、譲り合わなければ地球はなくなってしまう」。犠牲になった人たちに思いをはせ、命の限り、語り継ぐ覚悟を新たにした。

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