明菜と中森家の断絶の引き金 母・千恵子さんの死「通夜も葬儀も来なかった」と「行けなかった」の大きな違い

明菜と中森家の断絶の引き金 母・千恵子さんの死「通夜も葬儀も来なかった」と「行けなかった」の大きな違い

1995年6月10日、中森明菜の実母、千恵子さん(享年58)は直腸がんで帰らぬ人となったが、明菜は最期を看取る事はできなかった。

「長い闘病生活で、確かに母子の関係はうまくいってはいませんでしたが、千恵子さんは娘の活躍を病室のテレビで見るのが唯一の楽しみだったそうです。母親思いの明菜にとってもショックだったと思いますよ」

とは、当時を知る芸能関係者の弁だが、そんな明菜は千恵子さんについては無言を貫き通した。一方で、明菜が通夜や葬儀にも来なかったという話まで飛び出していた。

通夜は6月11日、告別式は翌12日に東京・清瀬の自宅で執り行われたが、千恵子さんが亡くなった後の明菜について、「一つ上の姉が電話したら『お母ちゃんの遺体を見たくない』と話していた」という記事が出た。

だが、当時の所属レコード会社だったMCAビクター(現ユニバーサルミュージック)の宣伝関係者は「明菜さんは、千恵子さんの亡くなった10日、フジテレビの『音楽旅行』という番組の収録で成田空港からフランスに出国していたので、さすがに家族と連絡を取り合うのは無理だったと思います。通夜や葬儀に出席しなかったというのも誤解を生みますね。おそらく明菜さん自身も覚悟はしていたはずですが、千恵子さんが亡くなったことは帰国後に聞いたのではないでしょうか」。

すでに27年の月日が過ぎた。しかし「通夜も葬儀も来なかった」と「行けなかった」では大きな違いがある。その後の明菜と中森家との関係はさらに悪化の道をたどる。

「明菜が、中森家から戸籍を抜きたがっているという情報は千恵子さんが亡くなる前から出ていましたが、千恵子さんの没後、本当に抜いちゃったようです。そもそも千恵子さんと中森家との間にも確執があったとも言われていました。明菜自身も、例えば父親が週刊誌の取材でギャラを受け取っていたとか、そうした些細(ささい)なことの積み重ねが不信感になっていたのかもしれません」(芸能関係者)

だが、明菜の中で「母親が亡くなったことのショックは大きかった」と言うのはフリーランスの芸能記者だ。

「確かに明菜について何か聞くとしたら、父親に取材していましたね。千恵子さんは中森家のお墓には入りたくないと言っていたようですが、そんな母親の思いは明菜にも伝わっていたと思います」とする一方、「明菜は千恵子さんの祥月命日には必ず母親から教わった料理を作ってお供えしていたそうです。明菜は料理が得意で、スタッフにも得意料理を作って振る舞っていたようです。そういったところでは母親譲りの部分はあったように思いますね」

いずれにしても、千恵子さんの死が、明菜と中森家の断絶の引き金になったことだけは確かだろう。

千恵子さんが亡くなって11日後の6月21日。明菜にとっては通算31枚目のシングル「原始、女は太陽だった」、さらに7月21日には通算16枚目のオリジナルアルバム「la alteración(アルテラシオン)」を発売した。

「アルバムは1年8カ月ぶりでした。プロデュースは明菜本人でしたが、過去のアルバムと違っていたのは、明菜は作品の方向性を伝えただけで、制作に関してはスタッフにすべて任せたものでした。アルバムのタイトルはスペイン語で『変化』という意味のようですが、明菜自身も、このアルバムで変化したいという決意のようなものがあったんじゃないでしょうか」(音楽関係者)

ファンの間では評判も良かった。が、オリコンによるチャートは伸びきれず、前作の「UNBALANCE+BALANCE」(4位)に届かない7位(7月31日付)の成績だった。 =敬称略 (芸能ジャーナリスト・渡邉裕二)

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■中森明菜(なかもり・あきな) 1965年7月13日生まれ、東京都出身。81年、日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生!」で合格し、82年5月1日、シングル「スローモーション」でデビュー。「少女A」「禁区」「北ウイング」「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE―情熱―」などヒット曲多数。NHK紅白歌合戦には8回出場。85、86年には2年連続で日本レコード大賞を受賞している。

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