「一太郎」が「ワード」に奪われた地位、「マイクロソフトの戦略に敗れた」…それでも伝説の開発者はITの魅力に夢託す

「一太郎」が「ワード」に奪われた地位、「マイクロソフトの戦略に敗れた」…それでも伝説の開発者はITの魅力に夢託す

 赤いパッケージに毛筆の書体で書かれた商品名。日本語ワープロソフト「一太郎」が、発売されたのは1985年8月28日だった。

 34歳の時にこのソフトを開発した女性プログラマー浮川初子さん(72)には、痛快な思い出がある。

 1万円札を同封した現金書留の山、山、山――。ネット通販がなかった時代、ソフトの購入代金が郵送で届き、金庫に入りきらないほどになった。

 一太郎は、日本語の文章をパソコンで書くという行為を当たり前にした国産ソフトだ。パソコンの職場や家庭への普及を背景に、爆発的なヒットを記録した。

 「日本一になれ」と願って名付けたソフトで、夫と2人で創業した「ジャストシステム」は、日本を代表するソフトウェア会社に成長した。ただし、話には続きがある。

ローマ字仮名入力、長文一気に変換…大ヒット

「本当によく稼いでくれました」。徳島市のソフトウェア開発会社「ジャストシステム」の専務で、プログラマーだった浮川初子さん(72)は、しみじみ語る。

 1986年の春、当時35歳の初子さんは、徳島県の秘境・祖谷(いや)渓谷を訪れていた。前年8月にワープロソフト「一太郎」を世に送り出し、その後に急ピッチで開発した新バージョンもようやく発売。社員をねぎらおうと、2歳年上の夫で社長の和宣さんと企画した2泊3日の社員旅行だった。

 「大変なんです!」。宿泊先に電話があり、慌てて会社に戻った。新バージョンの購入を申し込む現金書留が殺到していたのだ。

 1通につき1万円札が3枚。開封するハサミを持つ手がすり切れた。金庫に入りきらず、取引先銀行の行員が駆け付け、その場で札束を数えて持ち帰った。そんな日が何日も続いた。

 「これに懲り、それからはカード払いにした」と、初子さんは笑う。

 日本語の文書作成に主にワープロ専用機が使われていた当時、一太郎は、パソコンで同じことを可能にする画期的なソフトだった。

 ローマ字での仮名入力、長い文章を一気に変換する「連文節変換」機能、頻出単語が上位にくる辞書――。ソフトの心臓部が「ATOK(エイトック)」と名付けた日本語入力システムのプログラムだ。ソフト本体から独立して動き、ATOKがあれば、他社のソフトでも日本語入力ができる。

 発売当初の一太郎は定価5万8000円。年1万本売れれば「ヒット」だった時代に、1年足らずで3万本を突破し、10年以上もベストセラーに君臨した。

 IT関連出版を手がけるインプレス編集長の藤原泰之さん(52)は「縦書き、原稿用紙にも対応したまさに日の丸ソフト。官公庁や学校でも広く使われ、国内でのパソコンの普及を強力に後押しした」と、一太郎が果たした役割を熱く語る。

「自分たちで」作ったソフト、「標準ソフト」に成長

 一太郎は、どのようにして誕生したのか。

 79年創業のジャストシステムは、最初はオフィス用コンピューターの販売会社としてスタートした。

 徳島市出身の初子さんは、愛媛大電子工学科で1期生として学び、大学で出会った和宣さんと結婚。最初は2人とも会社勤めだったが、和宣さんが「コンピューターの時代が来る」と、思い切って起業した。

 創業時の社屋は初子さんの実家で、社員は夫婦2人だけ。社長の和宣さんが営業、専務の初子さんがソフト開発の担当だ。「何をどう売るかを考えるのが夫で、技術で支えるのが私」。それは、後々まで変わらない2人の役割分担となる。

 1台600万~1000万円と高価な機械を売るため、考えたのが日本語入力システムの改善だった。扱っていた機種の一つはカタカナしか表示できず、メーカーに技術開発を提案した。

 しかし、「忙しいんです。自分たちでやってくださいよ」と断られた。これが一太郎への第一歩だった。

 和宣さんは、初子さんに自分たちだけで開発できるかを相談した。初子さんはあっさり答えた。

 「できるよ」

 開発した仮名漢字変換システムは、「四国にすご腕の会社があるらしい」と評判を呼んだ。そこで、和宣さんは自社ブランドのワープロソフト開発を決意した。

 いずれパソコンの価格は下がり、1人1台の時代がくる。その時に必須なのがワープロ機能だという読みがあった。

 発売した「一太郎」は、時流に乗った。

 パソコンの出荷台数は、80年には年9万台程度だったが、85年に120万台、90年に200万台と急拡大。メーカー各社は家庭への普及に力を入れ始めた。

 罫(けい)線が簡単に引ける操作性、既製の伝票の枠にぴったり印刷できる機能など細かな工夫がユーザーの支持を受け、一太郎は事実上の「標準ソフト」としてパソコンと一緒に販売された。「1台売れるたび、チャリンチャリンとお金が入ってきた」と、初子さんが語る時代である。

 一太郎は94年、ビジネスソフトとして初の累計200万本を達成。この年のジャストシステムの売上高は195億円と、10年前の2億円から急成長を遂げた。従業員800人超、自社ビルを持ち、表計算や図形ソフトも手がける国内有数のソフトメーカーに飛躍した。

業界一変、OSと抱き合わせ販売

 しかし、業界地図を一変させる出来事が起きた。95年の「ウィンドウズ95」の発売である。

 ビル・ゲイツ氏率いる米マイクロソフトが開発したこの基本ソフト(OS)によって、パソコンは画面をクリックするだけでソフトを起動、インターネットに接続できるようになり、劇的に使い勝手が向上した。

 日本でも同年11月から販売が始まり、4日間で20万本を売り上げた。

 脅威だったのは、マイクロソフトが、OS人気を背景に一太郎と競合する同社のワープロソフト「ワード」の販売攻勢をかけたことだった。「日米のソフト大手の覇権争い」とメディアが書き立て、各社が「標準ソフト」をワードに急速に切り替え始めた。

 マイクロソフトの手法はOSやソフトの抱き合わせ販売ではと日米で問題視され、日本では98年、一部が独占禁止法違反と指摘されたが、すでに遅かった。

 ジャストシステムはこの年、赤字に転落。研究費や人員を削減し、営業に力をいれて10億円、20億円を稼いでも、「標準ソフト」の地位を奪われては焼け石に水だった。

 ジャストシステムは2009年4月、立て直しのため、制御機器大手「キーエンス」の傘下に入った。初子さん夫婦は一から育てた会社を去った。

 「下り坂の何年間かは、本当につらかった。今となれば、一太郎の商売を安易にやっていたのがまずかったんだと思います」

 とはいえ、いま考えてもほかにやりようがあったとも思えない。

 悔やむとすれば、資金繰りの問題で、研究中の技術を途中で諦めたことだ。ネット事業「ジャストネット」は、楽天のようなネット通販に育つ可能性があった。米企業から20億円で買い取った文書検索システム「コンセプトベース」は、グーグルのような技術に発展できたかもしれない。

 「マイクロソフトの戦略に敗れたのが全て」。その言葉に、業界の荒波にのまれた悔しさをにじませる。

「技術は負けぬ」新会社で手書きアプリ

 技術は負けていなかった。

 その思いから、一緒にジャストシステムを離れた技術者らと09年12月に設立したのが新会社「MetaMoJi(メタモジ)」だ。

 「メタ」はギリシャ語で「超える」の意味があり、「モジ(文字)」、すなわち一太郎を超える意気込みを込めた。和宣さんは60歳、初子さんは58歳。再び社長と専務としての挑戦だった。

 衝撃を受けた技術革新があった。新会社を設立直後の10年1月に発表された米アップルのタブレット端末「iPad(アイパッド)」だ。スティーブ・ジョブズ氏が開発した端末は、手軽に持ち運べ、指一本で何でもできた。洗練された技術が、マイクロソフトの覇権を揺るがす予感があった。

 メタモジは、iPad用に日本語を手書きで入力するシステムの開発に着手した。11年2月に発売したメモアプリ「7notes(セブンノーツ)」が初の製品だった。

 この時も愉快な思い出がある。

 社員の一人が会社のパソコンに、アプリが1本売れるたび、「ポッポー」というハト時計の音が鳴る仕組みを組み込んだ。

 ところが、発売翌日の正午にそれを起動すると、「ポポポポポポポポッポ」という、おかしな音が響いた。セブンノーツが、アップルのカテゴリー別アプリランキングで1位を獲得。売れ行きに音のテンポが追いつかなかった。

 でも、よく売れていることだけはわかった。社内で自然と拍手がわき起こった。

成功と失敗、そして再起「100年後も役立つ技術を」

 初子さんが「鉛筆一本で稼げる」とプログラマーを志して半世紀になる。成功と失敗、そして再起を経験して語るのは、めまぐるしく変化するIT業界の魅力だ。

「誰かが変革を生み出し、その変革にチャンスをもらう。そこから価値のあるものを生み出すところに、開発の楽しさがある」

 もちろん一人ではない。発想力に富み「コンピューターには無限の可能性がある」と語る和宣さんと、「可能性を使える形にするのがエンジニア」と話す初子さんは良きパートナーだ。2人で開発したメタモジのソフトは、学校や建設会社、放送局といった様々な現場で使われている。

 そして一太郎と、その心臓部「ATOK」もまた、初子さんらが離れた後のジャストシステムで、着実に販売実績を重ねている。

 メタモジの若手社員は、一太郎の大ヒットを知らない世代だ。昨年に入社した本間奨悟さん(30)は「社長と専務が時代を築いたレジェンドと知って驚いた」と明かす。

 初子さんは今、そんな若手技術者に夢を託す。「100年後も役に立つ技術を生み出す。そういう会社にしたいと思っているんです」

 大重真弓(おおしげ・まゆみ)記者 2006年入社。千葉支局、バンコク支局などを経験し、現在は東京社会部でデータ・ジャーナリズムに挑戦している。パソコンで文章を書く時は、専らATOKのお世話になっている。41歳。

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