「被害者がお金を出すなんて草」痴漢抑止バッジ、炎上したその後 応援も寄付も増え配布無料に#令和の子#令和の親
女子高校生たちが注目する通勤通学グッズがある。満員電車などで身を守ってくれる「痴漢抑止バッジ」だ。2021年夏、この小さな缶バッジを巡り、インターネット上で中傷が相次ぐ騒ぎがあった。ただ、「ネット炎上」は思わぬ効果を生んだ。まずは、時計の針を1年8カ月前に戻したい。
<被害者がお金を出して身を守らなきゃいけないなんて草>
21年8月、一般社団法人「痴漢抑止活動センター」(大阪市)が短文投稿サイト「ツイッター」の公式アカウントに「痴漢抑止バッジ」の紹介を投稿したところ、リツイート(引用)とともに、こんな書き込みをされた。「草」はネット上の俗語で、嘲笑を意味することもある。
金属製のバッジは1個500円弱でネット販売していた。センターの代表理事、松永弥生さん(57)は「そういう受け止め方をされることはたまにあり、あまり気に留めませんでした」と振り返る。ところが、「草」のリツイートが急速に拡散していくと、次々と同調する中傷が寄せられるようになった。
<缶バッジなんかつけても意味ない><被害者から金もうけしようとしている>
炎上のち応援
突然の「ネット炎上」に、松永さんは行方を見守るしかなかった。
3日後、風向きが変わった。フォロワー数1万人以上のユーザーがバッジの効果を紹介し、<応援するしかない>と投稿すると、1万近くの「いいね」がついた。さらに、別のユーザーが<高校生の時、この缶バッジをつけたら痴漢に遭わなくなったから、たたかれているのが悲しい>と投稿したことで、一気に応援の声が急増した。やがて、応援が中傷を上回って、炎上が収まった。
「もちろん悔しかったですが、炎上しなければ応援の声も届かなかった。『助かった』と言ってくれた人がいて、報われました」と松永さんは言う。
炎上は意外な効果をもたらした。バッジの普及活動などに賛同し、センターに毎月1口500円(当時)から寄付してくれる「サポーター」が、炎上騒ぎがあった3日間で7人から150人以上に急増したのだ。
しゃれたデザインで「痴漢は犯罪です」「私たちは泣き寝入りしません」などと書かれたバッジの効果は大きい。センターが16年3月から7カ月間、埼玉県内にある私立の女子高校生70人にバッジを利用してもらう調査をしたところ、9割以上の生徒が「効果があった」「効果を感じた」と答えている。
毎年、学生を対象にデザインコンテストを開いて種類も増やし、痴漢抑止センターが発足した16年から今年3月までに約1万7000個が売れた。ただ、バッジの無料発送やコンテスト開催の費用がかさんでしまい、運営は火の車だった。
騒動きっかけに無料で配れるように
寄付だけではまかなえず、センターの赤字は累積で1000万円を超えていた。バッジは有料にせざるを得なかった。
だが、炎上騒動をきっかけに寄付が増えたことで、今年3月からバッジを無料で配れるようになった。希望者への発送作業に追われているとき、送り先に児童養護施設の名前を見つけた。親に頼んで購入してもらうことができない子を救えたかもしれない。「無料にした価値があった」と胸が高鳴った。
バッジの知名度が上がったことで、無料配布の注文も増えた。フリーマーケットアプリのメルカリに出品されていたことなどもあり、9月からは「1人1個」と制限を設けた。痴漢に苦しむ全ての子の手元に届いてほしい。松永さんはバッジのPRを続けるつもりだ。
悪夢の始まりは高校2日目の朝
そもそも「痴漢抑止バッジ」はどうやって生まれたのか――。時計の針を今度は9年前まで戻す。
東京都在住の会社員、殿岡たか子さん(24歳、仮名)が初めて痴漢に遭ったのは14年4月、高校に入学し2日目の朝だった。
登校するため東京と埼玉をつなぐJR埼京線の満員電車に乗っていると、誰かの手の甲がお尻に当たっているのに気づいた。
「偶然だ」。最初はそう思った。だが、やがて手のひらに変わって、お尻を上下になぞるようになり、最後はぐっとつかまれた。「捕まえないといけない」と思ったが、その手はすっと引っ込んで見失った。
痴漢は都市伝説ではなかった
中学時代は電車通学ではなく、「痴漢は都市伝説のようなものだ」と思っていた。2、3分の出来事だったが、怖さや恥ずかしさがつのる。涙をこぼしながら学校へ向かった。
学校の先生に「女性専用車両に乗るといい」と助言されたが、帰宅時間帯に女性専用車両はなく、その後も帰りは頻繁に被害に遭った。
覆いかぶさられたり、揺れや人の流れに乗じたりして触られた。男たちは学生服やスーツ姿など見た目も年齢もさまざまだった。
女性も冤罪を気にする
「痴漢に何度も遭っているので、女性専用車両を増やしてください」とJRに電話やメールでお願いしたが、「貴重なご意見承ります」といった回答しかなかった。
女性専用車両を設ける時間帯を拡大した場合、男性の乗客にとっては、ホームで列車を待つ位置を変えねばならなくなるなどの影響も出るようだ。毎日新聞も女性専用車両の拡大についてJR東日本に認識を尋ねてみた。同社広報室は「お客様へのご案内がしやすいことなど考慮すべきさまざまな課題があることから慎重に検討する必要がございます。男性のお客さまも含め十分な理解を得る必要があり、引き続き検討してまいります」との回答だった。
録音と再生の機能があるマスコット人形に「助けてください、痴漢です」と声を吹き込んで通学時に持ち歩きもしたが、「人違いだったり、うそつきと言われたりしたらどうしよう」と思うと、使えなかった。殿岡さんは言う。「男性は冤罪(えんざい)を気にするが、女性も被害を受けながら、同じくらい、冤罪を生んだらどうしようと思っています」
「この人痴漢です」の発声練習
「助けてください。この人痴漢です」。毎晩、布団に入ってから、そう声を出す練習も繰り返した。「明日こそは痴漢に遭いませんように。もし遭ったら絶対に声を出す」と誓って眠った。次第に追い詰められ「私が弱いから痴漢に遭うんだ。声を出せない私が悪いんだ」と自分を責めるようになっていった。
少しずつ声を出せるようにはなった。帰宅ラッシュ時の満員電車で背後から両手でつり革を持った男が腰を擦り付けてきた時のことだ。体を押しつけられ、目の前の席に座っていた中年女性に覆いかぶさるように倒れ込み、ガラス窓に両手を突いてしまった。
「助けてください、痴漢されてます」と訴えた。ところが、その女性や両脇に座っていたスーツ姿の中年男性たちは、目をそらし、けげんな表情を浮かべるだけだった。
「ああ、何をしても無駄なんだ」「人間じゃなく、痴漢のための道具になった」とさえ思うようになった。
1000円札で「示談しよう」
唯一の支えは母の存在だった。痴漢のことを相談するたびに「あなたは絶対悪くないよ。悪いのは痴漢だから、あなたの尊厳がそれで傷つけられることはないんだよ」と言い続けてくれた。心配でたまりかねた母は「毎日一緒に登下校しよう」とさえ提案した。
高2の春、遠足の帰りに初めて痴漢を捕まえた。電車内で中年の男の腕をつかんで「この人痴漢です」と周囲に呼びかけた。でも客は無視した。電車が駅に着くと、ホームから駅員室まで男を引きずるように手を引いた。そんな力がどうして出たのか分からない。男は必死に「示談しよう」と言う。1000円札を胸に押しつけてきた。
報復の不安
男は警察に引き渡された。同様の前科があり、逮捕後には裁判が開かれた。しかし、裁判手続きのなかで、名前を知られてしまった。執行猶予判決だったため「報復されないか」と不安が募った。
犯人に見つからないよう、友達と一緒に写真を撮っても「ツイッターやインスタには載せないでね」とお願いしなければならない。ささやかな楽しみさえ奪われた。
痴漢の逮捕後、悩む日々の中で、母と考えついたのが、通学時に「痴漢は犯罪です」「私は泣き寝入りしません!」と書いたカードを下げることだった。警察官に手錠をかけられる犯人のイラストもあしらった。カバンの肩ひもにつけることにした。
すると、満員電車でも自分の周りにスペースができるようになり、ぴたりと痴漢がやんだ。つまり、カードを見た乗客たちに、奇異に思われて人が寄ってこなくなったのだ。「痴漢にさえ遭わなければよかったんです」。当時はそれほど追い詰められていた。
でも、やっぱり乗客の視線は気になった。その年の夏ごろ、母親の友人で大阪市在住のフリーライター、松永弥生さん(57)が「もう少しつけやすいのでは」と缶バッジにしてくれた。「小さすぎて効果がないんじゃないか」と不安だったが、カードと同じく肩ひもにつけると、同じようにスペースができ、痴漢にも遭わなかった。「変な目で見られることも減りました」。高2の秋を迎えていた。
背中押した#MeToo
ジェンダー問題にも関心があった松永さんはバッジの効果を聞き、普及へと動き出した。2016年には自身が代表理事になって「痴漢抑止活動センター」を設立した。バッジへの反発もあった。15年11月に初めてメディアに取り上げられたとき、ネット上では女性が痴漢から身を守ろうとすることに中傷が相次いだ。
<触られたくらいで自意識過剰><痴漢が嫌なら電車に乗らなければいい><男だって毎日冤罪におびえてつらいんだよ><男に免疫のないブス>……。バッジをつけ登校していた殿岡さんも書き込みに深く傷ついた。
ただ、19年に世界で広がった性暴力の被害者が抗議の声をあげる「#MeToo(私も)」運動の波が、国内に及び始めたのを機に潮目が変わり始めた。ネットではバッジに対する応援のコメントが徐々に増え、中傷に対して<それは違う>との反論コメントが上がるようになった。痴漢に遭っていたころは「自分一人で世の中と闘っている気分でしたが、そうじゃないと勇気をもらいました」。
「被害者は悪くない」。今、ようやく胸を張って言えるようになった。傷ついた気持ちも少しずつ癒え始めている。「どうかこのバッジが広まり、同じように今苦しんでいる子が助かってほしい」と願っている。
