800年前に沈んだ南宋の貿易船「南海1号」、まるごと引き上げたら貴重な積荷が続々

800年前に沈んだ南宋の貿易船「南海1号」、まるごと引き上げたら貴重な積荷が続々

金細工、貨幣、陶磁器など、最大8万点を船ごと引き上げ調査中

 1987年、英国の調査チームが中国側の当局と協力して、南シナ海で18世紀に沈没したオランダ東インド会社の船を探していた。ところが、チームが発見したのは、香港と広東省海陵島の間の海底に眠る全長約30メートルの「ジャンク船(中国の帆船)」で、12世紀の南宋時代の貿易船だった。

 1127年、華北の支配権を失った宋は南に退き、皇帝は臨安(現在の杭州)に新しく首都を定めて南宋を興した。南宋は安定し、隆盛を極めた。

 だが、北方の敵対勢力によって、南宋は中央アジアやヨーロッパにつながる交易路であるシルクロードの通行を阻まれた。シルクロードは、それまで数世紀の間、宋の経済の基盤だった。そこで南宋は、南シナ海の海上交通に活路を見いだし、造船業を発展させ、海上貿易で富を築いた。

 12世紀後半に、商品を積んで出港したばかりのその貿易船が沈没した。800年後に発見されたこの船からは、中国が強大な海運国を目指した時代をうかがい知ることができる。

沈没船を「箱詰め」にしてまるごと引き揚げ

 潜水調査を行ったところ、この船は出港後まもなく沈没したに違いないと考えられた。大量の積み荷が船倉にそのまま残っていたからだ。この沈没船は、この種の船としては南海(南シナ海の中国表記)で初めて発見されたので、「南海1号」と名づけられた。

 木造の船体と積み荷は、約1.8メートルの厚い泥の層に埋もれていた。積み荷には、磁器、宋時代の貨幣、銀の延べ棒などが含まれていた。船にはさらに多くの積み荷が残っていたが、泥で濁った水中で沈没船を調査することはほぼ不可能だった。資金と適切な技術がないまま、南海1号はその後の20年間、海底に眠り続けた。その間、中国海軍が現場を監視し、この水域には第二次世界大戦の不発弾が残っているというデマを流して、漁船を遠ざけた。

 2002年に南海1号の引き揚げ計画が策定され、5年後に実行された。まず、底の部分が開いた巨大なスチール製ケーソン(水中作業用の大型コンテナ)を、海底の沈没船にかぶせるように降ろした。この作業では、沈没から数百年が経過した船に損傷を与えないように、海底に設置されたセンサーでケーソンの降下位置を注意深く監視した。

 次に、ケーソンの上にコンクリート製の重いブロックを載せ、ケーソンが船底より下に届くように泥の中に押しこんだ。その後、ダイバーが頑丈な梁(はり)を何本もケーソンの側面の穴に通して、ケーソンの底面を形成した。コンクリート製ブロックを撤去後、南海1号と周囲の堆積物が格納された巨大なケーソンは、ゆっくりと海面に引き揚げられた。

 2007年12月、南海1号とその貴重な積み荷(総重量1万5600トン)は、広東省海陵島に建設された専用の「広東海のシルクロード博物館」に運ばれた。ここで南海1号は、特製の海水タンクに収められた。

 積み荷の大部分は、まだ船倉に残されたままだった。劣化を防ぐため、船と積み荷は泥と海水で覆われ、タンクの水温は船が発見された場所と同じ温度に保たれた。こうして注意深くモニターされた環境で、考古学者たちは南海1号の調査を続けてきた。

「海のシルクロード」へ

 長い年月を費やして、南海1号から100点の金細工、たくさんの硬貨など数万点が回収されたが、6万~8万点にのぼる積み荷の多くは南宋の陶磁器だった。

 南宋が頼みとした海上交通路は、「海のシルクロード」として歴史学者に知られている。西洋でローマ帝国が台頭したほぼ同じ時期に誕生した海のシルクロードは、インドネシアや香料諸島(モルッカ諸島)、インド、アラブ世界、地中海の古代ギリシャ・ローマ世界を結んだ。

 南海1号は、珠江デルタにある広州(広東)の港を出港したとみられている。広州は、泉州、厦門(アモイ)と並ぶ中国南部の主要港のひとつだった。

 南海1号の発見で、12世紀の船隊が輸送していた物資の詳細が明らかになった。大量の陶磁器には、宋時代と深い関わりがある建窯(けんよう)の黒釉(こくゆう)の器や、ハスなどの花の模様が特徴的な草色の竜泉青磁なども含まれている。青磁の器は東南アジア各地で発見されており、南海1号もこの地域に向かっていたと考えられる。

 東南アジアでは、褐釉という茶色の釉薬を用いた中国の陶磁器の需要もあったことが考古学上の発見でわかっているが、こうした磁竈窯(じそうよう)の器も船倉から見つかった。だが、南海1号の積み荷がすべて高級品だったわけではないようだ。積み荷のひとつである福建省産の白磁は、大量に生産され、手頃な価格で売られていた。

 積み荷からは、およそ1万枚の硬貨も見つかった。その多くには、南宋の2代皇帝である孝宗(こうそう)の時代を示す刻印があった。孝宗は、1160年代から1180年代末まで在位し、海洋貿易を強力に推進した皇帝だ。

 2018年の調査では、航海時期の特定につながる発見があった。積み荷の陶製のつぼの底に、1183年の製作を意味する墨書が見つかったので、南海1号の出港は1180年代初期以降と判断された。

「一帯一路」構想の象徴的存在

 南海1号は、歴史的に重要であると同時に、中国政府にとっては、自国の海運力と貿易力の壮大な歴史を顕示する手段でもあった。南海1号が発見された1987年は冷戦終結の時期で、中国は世界の舞台で新たな役割を発揮し始めていた。南海1号が引き揚げられた2007年には、世界経済における中国の重要性は揺るぎないものになっていた。

 2013年に中国が打ち出した「一帯一路」構想は、中国が十数カ国のインフラ整備に投資する大がかりな計画で、陸のシルクロードと海のシルクロードの現代版を念頭に置いている。中国の多くの国民にとって南海1号は、昔の中国が展開した貿易の繁栄ぶりと今後の野心的な計画を映し出す存在といえるだろう。

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