「素手でトイレ掃除」は美談なのか 誤解と懸念がないまぜの議論

「素手でトイレ掃除」は美談なのか 誤解と懸念がないまぜの議論

インターネットで「ネタ」として定期的に浮上する「素手でトイレ掃除」、この場合の「素手で」というのは、基本的には雑巾やブラシなど道具を使わず手で便器を直接こすって磨く掃除方法のことだ。研修や教育の一環として行われてきたと言われる素手でのトイレ掃除について、俳人で著作家の日野百草氏が、子供のときの体験を交え、意外なその広がりと、素手でトイレ掃除をすることは何か効果があるのかについて考えた。

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日本には「素手でトイレ掃除」をする人たちがいる。

こう書くと「そんな人がいるのか」と言われることがある。「信じられない」「そんなの見たことない」という人もいる。組織や地域によって差があるのかもしれない。海外の人なら「How terrifying!」(恐ろしい!)だろうか。しかし、実際にネットでサクッと検索しても、全国の学校、企業によっては「素手でトイレ掃除」をする人たちが美談として語られている。地方紙や専門誌を中心に、同じく美談として報じられているサイトや記事もズラッと並ぶ。

掃除によって人間を磨く

「素手でトイレ掃除」の例をいくつか挙げると、愛知県東部にある県立高校は自校のホームページ上で2015年、「1年生と2年生の有志生徒、職員、保護者あわせて200名以上が参加して学校内にある全てのトイレを素手・素足でピカピカに磨き上げました」と紹介している。終了後は参加者全員で童謡「ふるさと」を歌ったという。これを主導したのは掃除に学ぶとする外部の会だが、別の愛知県の県立高校でも2017年「便教会」と称して教員研修の一貫として「素手でトイレ掃除」をしている。この会を立ち上げたのは同校の元教師で、全国各地で同じような「素手でトイレ掃除」に学ぶという会がある。基本的には「素手」だが、雑巾を使う、薄いシートのようなものを使うなどのケースもある。

ダウンタウンの浜田雅功(敬称略、以下同)が、寮生活をしていた高校時代の話としてトイレを素手で掃除していたという逸話はかつての鉄板ネタだった。2019年のテレビ放送で俳優の高橋一生もまた、トイレ掃除は素手でしろと祖母から言われて以来、自主的に実践していると語り驚かれたが、彼らの経験は珍しくもなんともない。サッカーJリーグ、浦和レッズの槙野智章選手も「素手でトイレ掃除」の実践者として知られる。彼らとは直接関係ないが、同様の趣旨の運動は先に紹介した愛知県はもちろん、埼玉県や神奈川県、千葉県といった関東地方にもあり、実数は不明ながら各地で実践されている。全国的にも知られている都心の有名お嬢様学校でも、筆者の知り合い曰く、素手でトイレ掃除をしていた(現在は不明)とのことで、学校が荒れているとか、偏差値の上下でもなく学校によっては実践されているようだ。学校側ではなくPTAやOBを通して持ち込まれることもある。

企業となるとさらに増える。一部のコンサルティング会社(以下、コンサル)は「素手で掃除」を社員研修の一環としている。創業者の二代目、三代目がメンバーに多いことで知られるコンサル会社は2017年のプレスリリースで「素手でのトイレ掃除も。仕事のやり方・考え方に気付く習慣を身につける独自の研修」としている。これまた愛知県では2017年、地元の経営者や企業幹部、幹部候補者、青年会議所のメンバー総勢100人で小学校のトイレを素手・素足で掃除したと地元紙が報じている。筆者の知り合いの商社マンも入社したばかりのころに「素手でトイレ掃除」をさせられたという。

この「素手でトイレ掃除」を全国的な運動にしたのは鍵山秀三郎という人である。カー用品チェーン大手、イエローハットの創業者だが、1962年の創業以来、自ら実践してきた「素手でトイレ掃除」を含めて社会運動化、NPO団体の「日本を美しくする会」を1990年代に立ち上げた。その中に「掃除に学ぶ会」もある。あくまで日本を美しくするための会であり、「素手でトイレ掃除」以外の活動も盛んなので、美しくする会そのものはそれだけをアピールしているわけではないのだが、やはり「素手でトイレ掃除」のインパクトが強いためか同活動に関する引き合いが多いようだ。これまで紹介してきた「学ぶ会」も彼の教えを信奉し、実践する人たちである。前述したコンサルの言う「独自」というのはあくまで研修の売り文句なのだろうが、提唱者は鍵山秀三郎であり、「日本を美しくする会」はオーナー企業の個人活動を遥かに超えた全国組織である。企業経営者を中心に支持者も多く「素手でトイレ掃除」も含めた人間の磨き方などの啓発本も多い。本来は自主的に心を磨く行為だったはずが、一部のコンサルや信奉者により命令下の実践も見受けられるようにもなった。

「素手で掃除しなきゃだめだ」と言った男性教師

筆者は千葉県生まれだが、この「素手でトイレ掃除」の経験者である。昭和50年代、小学生の時、クラスメイト数人と特別支援学級のトイレ掃除の当番だった。筆者は子どものころから掃除好きで、それは生来の気性と同時に臨済宗の幼稚園で学んだからかもしれない。臨済宗では掃除もまた禅(作務)である。だからクラスの大半が嫌うトイレ掃除などなんとも思わないし、同じ感覚のクラスメイトと仲良くトイレ掃除を続けて先生から特別表彰された。そんな制度は知らなかったので気恥ずかしかったが、事件はある日起こった。

小学生の記憶なので曖昧な部分はあるのだが、知らない男性教諭がやってきて「素手で掃除しなきゃだめだ」と言ってきた。さすがに私たちは躊躇したが、先生に言われたので素手で雑巾を持って大便器(和式)の内側まで拭いた。筆者は泣いてしまった。クラスメイトがどうだったかは定かでない。ただその大便器の内側にこびりついたものをこすったことは鮮明に覚えている。泣いたことも覚えている。

なぜ泣いたかはわからない。汚い、ということではなかったと思う。自分からトイレ掃除をして、長く務め、表彰されて、それでも足りない、と言われたことに泣いてしまったのだろうか。もしくは命令されたことだろうか。

それを見た筆者の担任は即「そこまでしなくていい」と言った。冷戦下の昭和50年代、1980年代初頭の学校教育は子どもには想像もつかない教員同士の対立もあった。右であれ、左であれイデオロギーに支配された教員も多かった。いろいろあったのだろうとは思う。

かつて昭和の時代「東の千葉、西の愛知」と呼ばれるほどに特異な管理教育を実践していた千葉県だが、たまに教師から殴られたり蹴られたり程度で、それ自体は他の生徒と同じく当たり前のように受け入れていたものの、これだけは思わず泣いてしまった。ただし素手で掃除しないといけないと言い出したのはその先生だけだったので、彼が個人的に「素手でトイレ掃除」を信奉していたのかもしれない。昭和のマンモス小学校、彼だけでは語れないが、実際にいたことだけは事実である。

普通の人を看守役と囚人役に分けて人間心理を探ろうとした「スタンフォード監獄実験」にもこの「素手でトイレ掃除」がある。そこでは屈辱感を与える拷問とされているが、実験の是非はともかくお国柄の違い、では片付けられないほどに乖離があるように思う。ここで重要なのは「命令」で、小学生の筆者は命令されたからこそ屈辱を覚え、泣いたのかもしれない。これまで紹介したような自主的な方々ならまた違うのだろうし、命令は発案者である鍵山の本意から逸脱しているようにも思う。自民党の衆議院議員、野田聖子などはホテルに勤務していた時代、手抜きをしていない証拠に自分が磨いた便器の水を自主的に飲んだという。筆者の主治医にこれらの話をしてみると、

「やめたほうがいいよ、菌が凄いもん。素手だって駄目だよ、大腸菌は怖いよ。感染症にでもなったら大変だよ」

と諭されてしまった。医師として至極真っ当な反応である。また取材で知り合ったハウスクリーニング技能士(国家資格)のベテラン清掃員曰く「ちゃんとゴム手袋しなきゃ駄目だよ。なんの意味があるの?」と呆れられてしまった。これまた至極真っ当なプロの意見である。

「あとトイレの洗浄剤って強くて危ないからね、とくにアルカリ性の洗剤は素手で触っちゃだめだよ」

あくまで業務用の強力な洗剤の話だが、家庭用でも人によっては皮膚がかぶれ(接触皮膚炎)たりする。日本化学工業協会によれば、ハウスクリーニング業者が作業中に洗剤をこぼし、手当てが遅れたこともあって皮膚移植が必要なほどの化学やけどを負った事例もあるという。

掃除は素晴らしい行為だと思っているし、掃除から学ぶことは非常に多いと思っている。しかし、それはあくまで個人的な趣意で他者に命令、強要しようとは思わない。その行為が尊くとも、それが他者にとって尊いかは別問題である。せっかくの素晴らしい提唱や運動も押し付けと思われたら台無しだ。とくに企業は雇用側と被雇用者との力関係から、事によってはハラスメントになりかねない。また医師や清掃員の話ではないが、科学的に明白な衛生問題もまた留意すべきだろう。せっかくの篤志も誤解されてはもったいない。

ときとして学校や企業の不祥事が起きると話題になる「素手でトイレ掃除」、それを知らない、したことがないという人の考える以上に歴史は古く、日本各地で長く実践されてきた。しかし時代の流れとともにネットを中心に反発の声も生まれていることも事実、清掃という行為そのものは素晴らしいが、このコロナ禍もきっかけとして、時代にアップデートした対応と原点回帰が必要かもしれない。

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