くも膜下出血の末に6人死傷事故 60代現役タクシー運転手はどう見たか
事件や事故の報道につきものの被害者や加害者の顔写真がある。近影が見つからなかった場合、十年以上前の卒業アルバム写真が使われる事も珍しくない。最近では、家族の希望で被害者の実名や写真の報道を取りやめる例も出てきたが、申し入れされるまでは警察発表通りの実名と、入手できた顔写真が報じられる。俳人で著作家の日野百草氏が、千代田区で起きた6人死傷タクシー事故について現役タクシー運転手が抱く複雑な思いを聞いた。
* * *
「驚きました。事故でも顔が出ちゃうなんてね」
都心の個人タクシー、60代の運転手さんが先日起きた悲しい事故の話をしてくれた。タクシー運転手の方々はコロナ禍にあっても個々人の日常を運ぶ。しかしその日常に潜む、すべての危険とも隣り合わせである。
「事故を起こしちゃいけませんが、それでも人間ですからね、絶対はないです」
東京都千代田区九段南で9月11日、個人タクシーが男女5人をはねて死傷させてしまった。千代田区役所近くの内堀通り、現場を確認したが見通しの良い片側二車線、よほどの事情でもない限り歩道に乗り上げるような場所ではない。実際、ブレーキ痕はなかった。
「人間いつ何があるかわかりませんね、くも膜下(で運転を制御)なんて無理ですよ」
運転手さんは事故のことも病名も知っていた。事故を起こした運転手の方はくも膜下出血だった。脳の主要血管はくも膜という薄い膜を通っている。その血管が裂けてくも膜下腔に広がり脳にダメージを与える。原因は高血圧、動脈硬化など挙げられるが脳動脈瘤そのものは誰にも出来得るものであり、いつのまにか出来ていつのまにか消えていたりもする。遺伝的要因もあるとされる。
「あの人(事故当事者の運転手)だってまさか自分がなるとは思ってなかったでしょう」
くも膜下出血は約50%が死亡すると言われる。大出血なら一発で死ぬ。事故の運転手は病院に運ばれたが亡くなられた。こんな大事故となってしまうとは、自分が死ぬとは思っていなかっただろう。
「私も毎日仕事で運転してるわけで、いつそうなるかわかりません。でも名前どころか顔まで晒されるのは怖いですね」
事故を起こした運転手の名前と顔写真は一部テレビ局などで公開された。名前はともかく顔まで出す必要があったのか。最近では事故の場合、遺族の申し入れで顔写真や取材を控えるケースが多いが、たとえ事故でも加害者となると警察のさじ加減だ。あおり運転や故意の暴走といった極悪な交通犯罪も今回のような不慮の事故も同じ「加害者」として晒される。
「そりゃ人様の命を奪ってしまったのだし、プロだから仕方ない部分はありますが、顔出しは怖いですね。残った家族のことを考えると」
私も加害者になるかもしれません
不運不慮の事故である。確かに運転手以外に5人もの死傷者を出してしまったことは悲しむべきことだが、あおり運転のあげく「はい、終わり」とバイクの大学生を轢き殺した犯人のように殺意が立証されたわけでも、どこぞの上級国民のように母子を轢き殺したあげく悪あがきを繰り返したわけでもない。運転手の顔と名前、晒し者にする必要があっただろうか。筆者は事故車の表示灯が「SOS」と表示されていたことについて聞いてみた。
「踏んだんでしょうね、引くやつかな、どっちにしろ無意識かもしれませんね。だとすれば、プロとしてなんとかしようとしたんでしょうね」
タクシーは危険を知らせるため外部に「SOS」と表示できる仕組みになっている。レバーは運転席にあって、踏むタイプや引くタイプなどあるようだ。信号で長く停止後に後続車のクラクションで急発進、120m進んだところで街路樹に激突ということは、運転手は体調の変化に気づいていたのかもしれない。突然死の危険性が極めて高いくも膜下出血、急な脳疾患で意識もうろうだっただろう。悲しいかな、これが精一杯だったということか。
「私だってそんな万が一、対処できるか自信ないです。タクシーに限った話じゃないですけど、運転中なんて危険だらけですよ。毎日走ってると嫌でもわかります」
確かにそうだ。今回はタクシー運転手の突発的な急病による事故だが、運転している限りいつ自分も加害者になるかわからない。筆者も44歳で急性心筋梗塞を経験している。幸い自宅で意識はあり、妻もいたため命は助かったが、これがたとえば心臓の冠状動脈5番閉塞(心筋梗塞でもっとも危険な場所、筆者は3番閉塞)だったなら即死もあり得る。それが運転中なら今回と同様に大事故となっていたかもしれない。筆者も何度かお仕事をご一緒した声優の鶴ひろみさんも首都高を走行中に急性大動脈解離を発症したにもかかわらずハザードをつけて緊急停止、絶命した。
「その女性すごいですね、私だってできるかどうか」
鶴さんは急性大動脈解離で急死するわずかな時間、これは大変なことになる、迷惑をかけてはいけないと判断したのだろう。ケレン味のない彼女らしい対処だった。今回事故が起きてしまったタクシー運転手の方もあと少し意識が続いたならばそうしただろう。つまり、こうした予期せぬ事故は大変悲しいが、遺族ならともかく社会が運転手を責めるのは間違っているし、名前どころか顔まで晒すことはないだろう。
「私も加害者になるかもしれません。健康診断も受けていますが、それで今回のような事故を防げるかどうか」
先にも触れたが、未破裂脳動脈瘤は誰の脳にも存在する可能性がある。国立循環器病研究センターによれば全人口の3~5%の脳には脳動脈瘤という血管のコブができている可能性があるという。それが自然と消えるか、破裂するかはわからない。頭部MRIで発見できるとされているが、単なる健康診断(基本、タクシー運転手は年に2回)では、頭部MRIなんてまず受けない。人間ドックのオプション検査で脳ドックがあれば受けられるが、それでも絶対安心というわけではない。
「事故の人、私と同い年くらいなんですよ。タクシー業界、とくに個タクは60代なんて普通です」
東京タクシーセンター(2020年12月発表)によれば、「特別区武三」と呼ばれる東京23区と武蔵野市および三鷹市の個人タクシー運転手の平均年齢は64.2歳。いっぽう、イメージに反して法人タクシー運転手の平均年齢は新卒採用や女性採用の強化で下がり続けている。しかし個人タクシー(事業者乗務証交付者)の平均年齢は上昇中だ。今回の事故を起こした運転手の方も、筆者とお話しいただいている運転手の方も一般的には高齢者だが、個人タクシーとしては平均的な年齢ということになる。
「個人タクシーの中には定年がない人もいるんです。100歳だって仕事できます。私はだめですけどね」
個人タクシーは死ぬまでできる、と言われたのは昔の話。2002年2月以降に参入した個人タクシーは75歳までと定年が決められている。しかしそれ以前の運転手には定年がない(ただし条件あり)。2019年に神奈川県川崎市で会社員をはねてしまった運転手はなんと91歳! 運転手の方がおっしゃるとおり、「60代なんて普通」の業界だ。
「やっぱり年取るとリスクは高くなりますからね。でも仕事しなくちゃ食べていけませんし、いまは年寄りも働かなきゃいけないですから」
自動車技術がもっと進むといいと思う。安全装備に助けられることは多い
政府は一億総活躍社会などと年金額を減らし続けてきたが、ついには厚生年金分を削って国民年金(基礎年金)に割り当てるとした。いよいよ正社員の老後も安泰ではなくなった。一般国民の老後は「等しく下流」に押しやられようとしている。還暦過ぎたプロ経営者とやらが「45歳定年」と中高年の正社員はいらない趣旨の本音を吐いたが、それが経団連に受け入れられているということは、生まれながらの資産家という親ガチャ引き当て組か運良く一生遊べる大金を掴んだ者以外は死ぬまで働けということだ。筆者の既発表ルポ『「一生働くとは思ってなかった」と70代のUber配達員は言った』や『炎天下にマスク姿で道路に立つ70代の2号警備員が抱える不安』は決して他人ごとではない。残念ながら大半の一般国民は、歳を重ねるほどにリスクばかりの年齢不相応な苦しい労働を強いられるだろう。それが一億総活躍社会という国の望みだ。
「それでも個人タクシーは食えるだけマシだと思っています。できる限り安全に、気をつけるだけ気をつけて、あとは運ですね」
よりにもよって運転中にくも膜下出血なんて。今年1月にも脳卒中を起こした73歳の法人タクシー運転手が渋谷区笹塚で横断歩道に突っ込み6人が死傷した。このケースも事前の健康診断は異常なし。それはそうだ。義務付けられた健康診断とはいえ人間ドック、ましてや脳ドックほどの項目はない。タクシーに限らず、今後は職業ドライバーの健康と安全のために脳ドックまで義務付ける必要があるかもしれない。実際、一般社団法人健康マネジメント協会では職業ドライバーにも脳ドックを推奨している。
「それもありがたいですけど、自動車技術がもっと進むといいと思いますよ。安全装備に助けられることって多いですから」
ヒューマンエラーは防ぎようがない。突然死を伴うような病気、まして寿命など誰しもわかりっこない。だからこその技術革新によるサポートが必要ということか。トヨタのジャパンタクシーなどはトヨタセーフティセンスという予防安全パッケージが備わっている。個人タクシーで昔から主流のクラウンなどの大型セダンや最近タクシーで多くなったプリウスにも備えつけられている(他社、他ブランドにも同様の技術はあるがタクシーのほとんどがトヨタ車なので割愛)。一般ユーザーでも「うちの車にもついてるよ」という人は多いだろう。
「これにも(トヨタセーフティセンス)ついてます。大きな事故ならわかりませんが、日常の運転では助けられてますね。でも事故のクラウンにもついていたと聞いてますよ」
運転手さんのセダンにも備えつけられている。もちろんまだ技術的に絶対、ではない。
「だからこそ、さらにアップデートしたらいいなと思います。天下のトヨタですから、やってくれるでしょう」
技術革新に期待だが、コストの問題で買い替えが進まず、法人タクシーを中心に予防安全パッケージのない旧型もいまだに多い。長引くコロナ禍、タクシー会社も経営は厳しい。
「毎日仕事で乗ってる人なら、絶対事故なんか起こさない、なんて思わないです。病気もそうですが、もらい事故だってあるし、車もバイクも自転車もひどい運転の人がいます。歩行者だってとんでもない横断とかします。同業(のタクシー)でもひどいドライバーはいます。過信はしません」
自分が上手いと思っている、自分は大丈夫と思っているドライバーほどやっかいなものはない。日ごろの運転で、そんなことはない、事故は身近と多くの心あるプロドライバーは知っている。事故を起こしたタクシー運転手もそうだったに違いない。それでも災難は降り掛かってくる。まさかある日突然、運転中に自分が突然死するなんて!
筆者は以前『立川ホテル殺害事件に同業女性が慟哭「名前が出てしまうんですね」』でも言及したが、被害者はもちろん予期せぬ過失による加害者の名前、ましてや顔写真をテレビの全国放送で流す必要が、それを望む視聴者がどれほどいるのだろうか。群馬の女子高生死体遺棄事件でも当初、被害者の女子高生の名前や顔写真が公開されたが、生活のために風俗で働き殺された女性や異常な夫婦に騙されて殺された未成年の女子高生、そして今回の突然死による事故で加害者となってしまったタクシー運転手の名前や顔を日本中の晒し者にする必要があるのだろうか。
技術革新同様、社会も確実にアップデートしている。昭和のワイドショーのような「罪もない被害者や事故当事者の顔を見たがる」一般国民は減っているように思う。実際、今回もSNSを中心に実名顔写真公開に対して批難の声は多い。
「タクシーに巻き込まれて亡くなられた被害者の方もいらっしゃるので言いづらいですが、あのような事故で実名顔写真はきついです」
業務中の突然死で亡くなられた交通事故加害者、本当に顔写真を晒す必要があったのだろうか。それは「知る権利」と呼べるものなのだろうか。
