日本を分断した五輪が始まる 前例ないからこそ大きい「伝える」意義

日本を分断した五輪が始まる 前例ないからこそ大きい「伝える」意義

東京五輪が開会式を迎える。新型コロナウイルスの感染拡大による緊急事態宣言下、ほぼ無観客での開催。57年ぶりに日本へ戻ってきた夏季五輪は、競技が始まっても高揚感はない。

「安心安全」を唱えるだけで、なし崩し的に開催へ突き進み、失態を重ねた政府と東京五輪・パラリンピック組織委員会。空港や事前合宿、選手村の検査で確認される陽性者。国民の不安と不満、不信は解消されず、五輪熱の高さは世界でも有数とされる日本が五輪で分断された。この現状に選手たちも困惑している。

非はないのに批判の目が向けられ、発言と行動に注意して練習を重ねた日々。金メダルを獲得しても万人に祝福されることはないだろう。力を出し切れなかった選手が非難される危険性すらある。「アスリートファースト」にはほど遠い。

オンライン形式による日本選手団の結団式で、陸上男子の山県亮太主将は「開催自体の意義が問われる中、常に自分たちに何ができるのか、スポーツの意義について考えてきた。真摯(しんし)に競技に向き合い、ベストを尽くすことだ」と決意表明。「自分にとってスポーツの意義は人生を豊かにするもの。見てくださった方の気持ちが明るくなるきっかけになれば」と願った。

コロナ禍で「不要不急」とされたスポーツの意義を一緒に考えてほしい、という悲痛な叫びに聞こえた。

五輪の商業主義、肥大化の弊害が指摘されて久しい。4年に1度の絶妙な舞台設定は巨額の放映権料やスポンサー料などの収益をもたらし、各競技団体にも配分。競技力向上、選手のランク付けと世代交代を促進する効率的な装置だった。

ひずみが顕著になりながら、主催する国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長らの言動、旧態依然とした体質は五輪の価値をも揺るがした。国の支援がなければ強化費を賄えず、政治に翻弄(ほんろう)されたスポーツ界。1980年のモスクワ五輪不参加を機に政治からの独立を掲げて創設した日本オリンピック委員会(JOC)は存在感を示せず、史上初の1年延期を決定した場に山下泰裕会長の姿はなかった。

コロナ禍で白日の下にさらされたスポーツ界の現実。それでも選手たちのひたむきさ、汗と涙の尊さは変わらない。

「最終調整で地の利はあるが、強国が集う海外大会への参加を長く自粛した影響は大きい」と、日本の金メダルラッシュ予想に首を振る強化担当者は少なくない。主にテレビ画面を通してではあるが、厳しい戦いに挑む選手の一挙手一投足には無観客となることで、より注目が集まる。選手が主役という原点、スポーツから得られる一体感を再認識する五輪になるだろう。

私たち一人一人がスポーツの力を実感し、スポーツの在り方、スポーツとの関わり方を考える場としたい。その一助となる選手の姿と言葉、ここまでの努力と結果を伝え、記録として残すのはメディアの責務。コロナ禍で前例のない五輪だからこそ意義は大きいと胸に刻み、五輪報道に臨む。

🍎たったひとつの真実見抜く、見た目は大人、頭脳は子供、その名は名馬鹿ヒカル!🍏