李登輝元総統死去 日本とのゆかり深く/台湾

李登輝元総統死去 日本とのゆかり深く/台湾

親日家として知られる李登輝元総統が30日夜、敗血症性ショックや多臓器不全のため台北市内の病院で死去した。97歳だった。日本統治時代の1923年に台北州淡水郡三芝庄(現在の新北市三芝区)に生まれた李氏。皇民化政策の一環として展開された改姓名運動に従い、岩里政男と日本名を名乗った。「22歳までは日本人だった」と公言するなど、日本とのゆかりは深い。李氏と日本との関係に焦点を絞り、その歩みを振り返る。

▽農業経済学者から政治家に転身

李氏は高校の時、台北の図書館で農業経済学者である新渡戸稲造の著書に出会ったのがきっかけで、農業経済学を学ぶようになる。後に武士道に心を打たれ1943年に京都帝国大に入学した。だが、学徒出陣のため1年余りで学業を切り上げ、志願で旧日本陸軍に入隊し、被爆地の整理、被災者の救済に当たった。現場を見て指揮する大切さを学んだという。戦後、故郷の台湾へ戻り、米国留学を経て台北市長、台湾省政府主席、副総統、総統を歴任。総統在任(1988~2000年)中、1949年に中華民国政府が台湾に移転してから一度も改選されることなく「万年国会」と揶揄(やゆ)された国民大会の代表の退職や総統の直接選挙の実施など、台湾の民主化に力を尽くした。その功績で「台湾の民主化の父」との異名を付けられ、李氏の政権運営は日本の学者からも高く評価された。

▽一挙一動に目が注がれる

親日で知日の李氏の一挙手一投足は日本でも注目を集めた。皇太子徳仁親王(当時)が1993年6月に結婚した際、祝電を送ったことや作家の司馬遼太郎氏や漫画家で評論家の小林よしのり氏、建築家の安藤忠雄氏など日本の著名人との対談、日本の国会議員会館での講演など、その発言や行動は、日本のメディアをにぎわした。特に司馬氏との対話で生まれた「台湾人に生まれた悲哀」という文言は人々の耳目を驚かせた。

▽日本語の著書と日本での受賞

日本の書店店頭にも李氏の日本語の著書が並ぶ。「台湾の主張」、「『武士道』解題―ノーブレス・オブリージュとは」、「最高指導者の条件」、「李登輝より日本へ贈る言葉」など。1999年に「台湾の主張」の日本語版が出版された際には、記念イベントが東京で行われ、李氏はビデオメッセージで、日本にとって台湾はただ南に浮かぶ島ではなく、日本の存続に関わる重要な防御壁だと訴えた。同書は日本人の台湾に対する理解促進に寄与したとして、第8回「山本七平賞」を同年受賞した。日本での受賞歴はほかにも「後藤新平賞」がある。台湾を民主化に導き、その貢献は後藤の仕事と精神を受け継いだとして2007年に第1回受賞者に選ばれた。

▽政権運営に見られる日本経験

1999年9月21日、台湾で2400人を超える死者を出す大地震が発生。李氏は震災の対応に当たり、日本での入隊経験が役立ったことを月刊誌「Voice」への特別寄稿で明かしている。地震発生後、ほぼ毎日のように被災地に足を運び、現場を見た上での指揮を実践したのである。被災地で見聞きしたことを日記にも書き記しており、その日記は「台湾大地震救災日記」のタイトルで日本語に翻訳された。日本語版には震災復興に対する日本の官民への感謝の言葉が記されている。

▽念願の日本訪問実現

李氏は「日本を訪問したい」との意向を幾度となく表明していた。だが、2000年の総統退任後も対中関係に配慮した日本政府の思惑により、なかなかうまくいかず、2001年4月、心臓疾患治療の名義でようやく念願をかなえる。「治療目的に限り、政治活動は行わない」という条件の下、岡山県倉敷市の病院で心臓病の治療を受けた。このこともあり、2018年夏、西日本豪雨で深刻な被害を受けた岡山県民にお見舞いのメッセージを送っている。

2007年には「奥の細道」ゆかりの地、宮城や山形、岩手などを訪問した足で、靖国神社を訪れた。旧日本軍として戦場に赴き帰らぬ人となった実兄に祈りをささげるためだった。李氏によると、同神社に眠る台湾人の英霊は2万8000柱に上る。だが、多くの日本人は知らないと残念がる。

2015年の訪日中、台湾も領有権を主張する釣魚台列島(日本名:尖閣諸島)を巡り、日本のものだと公言。似た発言は過去にも複数回あり、波紋を呼んだ。従軍慰安婦問題については、「台湾の慰安婦の問題は決着済み」と日本の月刊誌への寄稿で書き、一部の台湾人から批判を受けた。

2018年6月、李氏は沖縄を訪問。自身が揮毫(きごう)した文字が刻まれる「台湾出身戦没者慰霊碑」の除幕式に出席。人生最後となる日本訪問で「台湾人としての私はわが国を強く愛しており、生涯学んできたことでわが愛する台湾の土地に貢献してきた」と台湾への愛を示した。戦前は日本人として、戦後は台湾人として生きることを余儀なくされた李氏。岡山訪問を皮切りに、総統退任後は持病の治療や講演、観光などの目的で計9回、日本に足を運んだ。

李登輝台湾元総統が死去、97歳=民主化推進、本省人の親日家

台湾の李登輝元総統が30日夜(日本時間同)、死去した。97歳だった。李氏の入院先の病院関係者が明らかにした。終戦後に中国大陸から渡ってきた外省人の蒋介石、蒋経国親子による独裁が続いた台湾で、本省人(台湾出身者)として初の総統に就任。12年間の在任中に直接総統選挙を導入するなど民主化を進めた。「私はかつて日本人だった」と公言する親日家で、日台関係の発展にも尽力した。

 日本統治下の1923年、台北州淡水郡(現新北市)で警察官の次男として生まれた。旧制台北高校を卒業後、京都帝国大学農学部に入学、学徒出陣で陸軍に入隊した。終戦後は台湾大学で農業経済学の研究に従事し、台湾省政府農林庁の専門家として農業近代化に尽くした。米国に2度留学し、コーネル大学で博士号を取得した。

 農業改革への献身ぶりが行政院副院長(副首相)だった蒋経国氏の目に留まり、国民党に入党。49歳で史上最年少の閣僚として行政院政務委員(農業問題担当)に抜てきされた。台北市長、台湾省政府主席など歴任後、84年副総統。88年1月に蒋経国総統が死去すると、憲法の規定により自動的に総統に昇格した。

 90年に国民大会で総統に再選した李氏は、守旧勢力との権力闘争を繰り広げながら、民主改革を次々に断行した。具体的には、総統に超法規的な権限を付与し、独裁体制の根拠となっていた憲法の「反乱鎮定動員時期臨時条項」の廃止や、有権者による総統直接選挙制の導入などで、96年の初の直接選挙には自らが出馬して当選した。

 対中関係では、93年に中台双方の窓口機関のトップ会談をシンガポールで実現させ、本格的な交流に乗り出した。しかし、直接総統選の実施や、台湾と中国は「特殊な国と国の関係」とする「二国論」発言で関係は悪化。総統選直前には、中国が台湾北部海域に威嚇目的でミサイルを撃ち込み、米国が空母を派遣する台湾海峡危機が発生した。

 2000年の総統選で国民党が敗北した責任を取り、党主席(党首)を辞任した。同年5月に総統を退任。翌年、李氏を精神的リーダーに掲げる政党「台湾団結連盟」が結成されると、国民党を除名された。その後も政界で一定の影響力を維持し、20年の総統選では、再選を目指した民進党・蔡英文総統を支持した。

 退任後は、01年の心臓病治療をはじめ、「奥の細道」をめぐる旅行などでたびたび日本を訪問した。18年6月に沖縄県を訪れたのが最後の訪日となった。最晩年は入退院を繰り返し、ほぼ寝たきりの状態に。20年2月に肺炎などにかかっていたことが分かり、台北市内の病院に入院していた。

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