【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】松本隆さんに作詞をアプローチも…「聖子」理由に断られた

【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】松本隆さんに作詞をアプローチも…「聖子」理由に断られた

 「中森明菜は絶対にビッグ・アーティストになる。だからコンセプトを持った作品作りに全力をあげるようにと現場にはハッパをかけていました。確かにデビュー・シングルは期待通りには行きませんでしたが、ただ気持ちのどこかでアルバムには期待というか自信のようなものがあったことは確かでしたね。正直言って明菜のボーカルは新人の中でもピカイチだったので、作品さえよければ必ずアルバム・アーティストとして成功すると思っていました。シングルは、そのための起爆剤になればいいと考えていました」

 明菜の制作宣伝を統括していたワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)の寺林晁氏の思惑は見事に当たった。

 1982年7月1日に発売されたファースト・アルバム『プロローグ(序章)』は同月12日付オリコンのアルバム総合チャートで初登場7位にランクされたのだ。

 「やはり作品。今でも作品に恵まれたと思っています」と寺林氏。

 実はデビュー曲も含め、アルバム収録曲には苦悩があった。ワーナーで明菜のプロモーターを担当していた富岡信夫氏は「当時の(明菜担当の)ディレクターから聞いた話」と前置きした上で制作秘話を明かしてくれた。

 「来生たかおさんに作品を依頼したらどうかと言ったのは私でした。前の年(81年)に大ヒットした『夢の途中』を聴いた時から、来生さんが気になっていて、ディレクターに提案したのがきっかけだったんです。一方で作詞は松本隆さんにもアプローチしていたようです。ただ松本さんは実に律義な方で、松田聖子の作品をやっている事情から、せっかくですが遠慮しなければならないと丁重にお断りされたといいます。そこで、作詞は来生えつこさん、作曲は来生たかおさんのコンビ作品をメインに据え、脇を新人作家の作品で固めようとなったのです。もちろん新人といっても、作家の伊集院静さんが伊達歩というペンネームで作詞した『ダウンタウンすと~り~』も含まれていました。この作品は明菜もお気に入りでコンサートでは必ずセットリストに入れていました」

 それにしても松本隆が、デビュー前で、しかもメディアからはまったく相手にされず「新人では6、7番手」といわれていた明菜への楽曲提供を「聖子」を理由に断ったのは、この時から明菜の底知れぬ才能を見抜いていたのかもしれない。聖子と明菜を知る芸能関係者はいう。

 「松本さんですから、むげに断るとは思いません。当然、明菜のデモテープは聴いたはずです。その上で明菜に感じるものはあったはず。もしかしたら聖子のライバルになるかもしれないと…。でなければ聖子の楽曲をやっていても受けたと思います。松本さんの読みは当たったのかもしれませんね」

 ちなみに聖子のデビュー当時の『風は秋色』や『青い珊瑚礁』など代表作を手掛けた小田裕一郎さん(2018年9月死去)は、明菜と同期の石川秀美の初期の作品を手掛けていた。

 いずれにしても作家の選定で他のアイドルとの「差別化」にこだわっていた寺林氏はいう。

 「既成概念にとらわれないスタイルでやっていくことが私の考えでした。もちろん賭けもありましたが、いかに明菜のボーカル力をクローズアップさせるかが大きなポイントだと考えていたんです。この戦略を実現させるために、とにかく現場には新人作家、シンガー・ソングライターをメインに起用するようにと指示したのです」

 そういった戦略が功を奏し、明菜はアイドルの枠を超えたアーティストとして注目されるようになった。

 「結果的になるかもしれませんが、明菜は多くの作家、アーティストにも刺激を与えた“歌姫”として成長していきました。それが、その後の『歌姫シリーズ』にも結びついていきました」 (芸能ジャーナリスト・渡邉裕二)

 ■中森明菜(なかもり・あきな) 1965年7月13日生まれ、54歳。東京都出身。81年、日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』で合格し、82年5月1日、シングル『スローモーション』でデビュー。『少女A』『禁区』『北ウイング』『飾りじゃないのよ涙は』『DESIRE-情熱-』などヒット曲多数。

 NHK紅白歌合戦には8回出場。85、86年には2年連続で日本レコード大賞を受賞している。

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