ソフトな緊急事態宣言を聞き入れた日本人の不思議

ソフトな緊急事態宣言を聞き入れた日本人の不思議

 この報告書ではCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)の発生とその対応策について以下3つの視点から考察する。

(1)リーダーシップの問題(リーダーシップはCOVID-19への対応策を形作り、その効果にも影響する)

(2)(社会、政治、経済の) 構造的な要因

(3)文化的・歴史的な要因

 はじめに断っておくと、COVID-19についてはまだわからない部分が多い。感染経路についても不明な部分が依然として残っているし、統計データの集計方法も国によってまちまちだ。「人口あたりの検査数」といったデータの公開範囲も国によって異なる。それゆえこの感染症がもたらした状況について、国家間の比較であれ、そして一国の事柄にかんしてであれ何かを論じるときは、それが比較的弱い情報基盤に立脚しているということを念頭に置く必要がある。

 特にこのことは「感染者数」の比較を行った際には明らかだ。しかし、アクセスできるデータが国によってどれほど異っていたとしても、米国・イギリス・イタリア・スペイン・フランスなどの感染状況は、日本・韓国・台湾そして中国などの状況と比べてより深刻と見て間違いないだろう。現時点で、米国や主な欧州諸国のCOVID-19による死者数は人口100万人あたり200名~500名に達している。欧州の主要国の中で唯一低い死亡者数を維持しているのはドイツだ(100万人あたりの死者数は約80名)。アジア諸国(日本・韓国・中国・マレーシアなど)の死者数は100万人あたり3名~5名である。じつに2桁、100倍の開きがある。この違いをどのように説明できるだろう。

 ある者は生理学的な要因にその答えを求める。たとえば、欧米で蔓延しているCOVID-19はアジアのものと「型が違う」という説だ。またある者は結核の予防接種(BCGワクチン)が影響している可能性を指摘する。私自身はこれらの仮説の評価を行うことはできない。なので以降の分析ではこのような可能性は捨象して話を進める。

(1)リーダーシップの問題

 日本に住んでいると、安倍政権の不手際を挙げることは容易だ。日本政府一般の不手際を指摘することもできる。たしかに、ダイヤモンド・プリンセス号での政府の対応は徹底しているとは言い難いものだったし、2月下旬に行われた全国の学校に対する休業要請など大きな決断を行った際にも、説明は十分ではなく、突然決まったという印象は拭えない。安倍政権の閣僚や小池都知事は「予定通りの五輪開催」にこだわるあまり、緊急事態体制への移行が遅れたようにも見える。予定通りの開催など不可能と誰の目にも明らかになった後も、安倍首相や小池都知事はその望みをなかなか捨て切れないでいた。「緊急事態」が宣言されて以降も、金銭的な給付が人々の手に実際に届くまでにはかなりの時間を要したし、対策案をまとめる過程でも一貫性のなさが指摘された(10万円一律給付しかり)。

 経済活動の再開に際しては特に、検査数の増加が必要だと明らかになった後も検査の増加スピードは緩やかなままだ。4月に入ってもなお厚労省の専門家たちは検査数を限定し、クラスターを追跡する手法を継続していた。その背後では、より広範な検査を行わなければ早期に捕捉することはできない、クラスター外における感染経路不明の事例が多発していた。

 しかし、このような国の指導者や行政機関の問題は米国のドナルド・トランプ大統領や連邦政府、あるいは欧州の一部の指導者たち(イギリスのボリス・ジョンソン首相やイタリアの指導者たちなど)と比べれば軽度なものだといえる。仮に「最悪のリーダーシップ」を競う五輪競技があったなら、米国、イギリス、イタリアがそれぞれ金、銀、銅メダルを獲得するだろう。日本や他のアジア諸国は(中国を除き)競技の参加資格さえ得られないはずだ。

 トランプ政権は、1月31日の中国からの入国禁止措置から3月13日の国家非常事態宣言までの6週間、「無為無策」という失敗を続けてきた。トランプ氏お決まりの、一連の嘘に誇張に自己愛、自信過剰、さらに専門的な知見の軽視は破滅的な対応の遅れに繋がった。ウイルスが水面下で静かに広がる中、これは致命的だった。宣言の後も、トランプ氏はCOVID-19の危険性を軽視し続け、実証されてもいない治療法や経済回復の可能性をことさら誇張し、「消毒剤を注射する」などというとんでもない助言すら行った。実際、米国の他の指導者たち、すぐに思い浮かぶところではニューヨーク市のデブラシオ市長らも、ウイルスの危険性を正面から受け止めるのに時間がかかった点では同じだ。ニューヨーク市の決断がカリフォルニア州知事やサンフランシスコ市長らの下した決断と比べて1週間の遅れを取ったことは、これらの地域の明暗を分けた大きな要因と考えてよいだろう。つまりトランプ氏のみが悪者ということではない。ただし、彼とその政権の幹部たちは国家の運営に対して重大な責任を負っている。世界で最も優れた医療設備を有していながら、世界で最もCOVID-19の感染者を出した国となり、人口あたりの評価を行った際にも最悪の状況を招いていることに対する責任は重い。

 対照的に日本政府は、首相をはじめ、主要な閣僚、与党、野党、そして都道府県知事と、それぞれ比較的早い時点からCOVID-19の危険性を認識していた。たしかに一斉休校の要請は唐突だったのかもしれない。しかし、その決断も、またその数日前から行われていた大規模な集会に対する自粛要請も、重要かつ賢明な判断だったといえる。初期の段階で検査をクラスターに集中させたことも理解できる。もっとも、もっと早い段階で政府当局は検査対象を広げ、クラスター外における感染状況を把握すべきだったと考えるところではあるが。また基本的な姿勢として、政府は専門家からの意見に注意を払った。このことは一般の国民に対し一貫して明確なメッセージを伝える効果を持ったと考えられる。これは他のアジア諸国やアンゲラ・メルケル首相の率いるドイツにも共通していた点だと思われる。

(2)構造的要因

 仮に世界の指導者たちがみな主体的かつ一貫した態度でCOVID-19に挑んでいたとしても、特筆すべき「ある構造的な要因」が影響して、米国や欧州の一部地域における状況は、アジアの諸地域と比較して深刻な状況になったかもしれない。

 つまり「公衆衛生」についていえば、特に米国は日本・台湾・韓国などのアジア諸地域と比べて劣っているのだ。これは「公衆衛生」の概念が19世紀後半に西洋(主にドイツなど)からアジアに伝えられたという経緯を思うと、皮肉なことである。

 米国では数十年間にわたり慢性的に、公衆衛生分野への支出が不足している。これは一部の幸運な人々に向けた高度専門医療に資金が集まっていることとは対照的だ。国民すべてが加入できる包括的な医療保険制度(今でもいわゆる「オバマケア」と呼ばれている)を持たないことが、米国の抱える重大な構造問題になっている。医療費が高額になる恐れがあったために、米国ではすでに感染が拡大していた2月になっても多くの人々が治療を躊躇したと見られている。

 米国の抱えるこの長期的な構造問題はトランプ政権の下でより深刻化した。トランプ政権は、国家安全保障局(NSC)内のパンデミック対策部門(Directorate for Global Health and Security and Biodefense)を2018年5月に解体している。この組織はエボラ危機が発生した後、2015年にオバマ政権が立ち上げたものだったが、トランプ政権によって解体された。メンバーの一部はNSC内には残ったものの、その影響力は著しく低下した。台湾や韓国と米国との大きな違いがここにある。台湾政府は2003年にSARSウイルスへの対応を経験した。また、韓国政府は2015年にMERSウイルスの危機に直面している。このような経験がこれらアジアの諸地域における公衆衛生の制度を改善し、対策の計画立案にも大きな意味を持った。

 公衆衛生に直接的には影響しない要因だが、この他にも感染症対策の結果を左右したと思われる構造的な問題がある。今後さらなる分析が待たれる面は残るが、医療保険の未加入だけではなく、「雇用の不安定さ」が人々の行動に影響したという仮説も成り立つ。雇用が不安定な人々の間では、多少体調が悪くとも、家の中に留まるより仕事に出かけようという誘因があったと考えられる。社会的・経済的な格差の広がりは今回のウイルスの拡大にも関係しているようだ。実際に米国の都市部でも、特に貧困が深刻な地域でCOVID-19が猛威を振るっている。

(3)文化的・歴史的な要因

 日本の文化に見られる様々な習慣も論点に加える必要があるかもしれない。メディアでたびたび指摘されていることだが、日本やアジアの一部地域に見られる習慣が感染の予防に貢献している可能性がある。「マスクの着用」「玄関で靴を脱ぐ」「誰かと会った際には(握手や抱擁、欧州人のように両頬に口づけをするのではなく、むしろ)お辞儀で挨拶をする」など。

 一方で、他の一部の習慣は感染を拡大する方向に影響しているのかもしれない。たとえば、日本のオフィスに見られるように、机と机の間に仕切りを設けず正面から接している状態や個室の少なさは、職場での感染防止を困難にしている。また、カラオケやパチンコに多くの人たちが親しんでいることも感染拡大のリスクを高めている。現実にこれらの習慣がどれほど影響したかは不明であり、ここでは指摘するのみに留める。

 日本の国内外において多くの論者が、日本の比較的ソフトな緊急事態宣言の「特殊さ」を指摘している。日本の緊急事態宣言は法律に基づくものではあるが、命令や強制的な罰金・拘束を伴うものではなく、あくまで「要請」や「指示」に基づいている。これは他の地域に類を見ないものであり、私自身、特筆すべきことだと感じている。この政策の背景にはいったい何があるのだろう。

「ソフトな」緊急事態宣言に訴えるという手法は、感染症対策として、かつての日本政府が歴史的にとってきた手法とは異なる。ケンブリッジ大学の歴史学者バラック・クシュナー氏によれば、明治時代には、特にコレラが公衆衛生上の重大な脅威として浮上していた。この時、日本政府は「強制的な隔離」を政策の柱としていた。1877年、日本政府は「虎列刺(コレラ)病予防法心得」に続く一連のコレラ対策関連法を公布し、検査や隔離、感染者が住む地域の消毒を行う権限を警察に与えた。さらに日本政府は、明治後期から第2次大戦の数十年後にいたるまで、ハンセン病患者に対して厳しい隔離政策を続けていた。1907年に「らい予防法」が成立。同法は医師にハンセン病患者の報告を義務付け、警察に対しては患者の強制的な隔離措置を行う権限を与えた。ハンセン病の患者たちは指定された収容施設に送られ、多数の患者が社会から隔てられた暮らしを余儀なくされた。ハンセン病の治療法が確立された後も、ハンセン病関連法は数十年間にわたって効力を持ち続け、ハンセン病患者の方たちは社会的な烙印(スティグマ)に苦しみ続けた。1996年になってようやく「らい予防法」が廃止され、ハンセン症患者たちは隔離施設から解放された("Japan's state of emergency has dark history", Nikkei Asian Review)。

 現在、日本政府がCOVID-19への対策として行っている比較的ソフトな緊急事態宣言は、他のアジアの地域や欧州の多くの地域、または米国で行われている厳格な規制とは明らかに異なる。そして、日本政府がかつて行ってきたコレラやハンセン病への対策とも異なる。

 日本でこのような特異な政策が実施される背景として、よく指摘されるのは「戦後民主主義」の存在だ。戦後、民主主義が日本にも深く根を張り、公権力に対する国民の信頼を揺さぶり、政府が個人の権利を強く制限することが制度的にも困難となったという見方だ。しかしこれは背景の一部にすぎないだろう。結局のところ、これまで歴史的に個人の権利を重視してきたフランス、イギリス、米国などの国々でも今回、警察が強い権限を行使し、厳しい規制の実施に乗り出しているのだから。

 私は今回の日本政府の政策は、個人の自由への介入をけん制するリベラルな価値観へのコミットメントのみによるものではないと捉えている。その源流は明治時代にまでさかのぼり、近代の習慣として「説得による誘導」が国家と社会との関係性において重要な意味を持ったことに端を発している。

 この「説得による誘導」の習慣は、コレラやハンセン病に対する強硬な政策手段とは対照的でありながらも、それらと並行して行われてきた。この習慣は、感染症を抑制する手法としては用いられず、もっぱら他の社会的な目的のために利用されてきた。

 私の同僚で、プリンストン大学教授で歴史学者のシェルドン・ガロン氏はこの習慣を「教化(モラル・スエージョン)」と呼ぶ。この「教化」という用語は、本来は、仏教徒が他者に教えを説き、その徳を高めることを表すものだ。明治期1920年代を通じて、この「教化」という用語が政策に用いられた。後の年代では、特に戦中期、この種の政策に関して「動員」という言葉が使われ、戦後期には「運動」という言葉が用いられた。ガロン氏は、この「教化」(道徳による行動変容、すなわち「モラル・スエージョン」)が行われた背景として、社会通念として「政府を含めた社会に存在する様々な団体・組織は、大衆を啓発し統制することができる」という考え方があったと指摘している。

 1920年代から1980年代にかけては特に、政府が主導した「動員」や「運動」の事例を数多く見ることができる。法的な強制力はなくとも、日本政府は国民の貯金を奨励し、消費の抑制を呼びかけ、「国産愛用運動」で国産品の購入を奨め、「新生活運動」で都市や農村では蠅や蚊の駆除による衛生状態の改善を求め、女性の「科学的」な家庭管理を促した。政府は1990年代まで貯金の奨励を継続した。「教化」の具体例は1970年代の度重なるオイルショックの後の「省エネ」の呼びかけ、あるいは2011年の3.11、東日本大震災後の電力節約要請にも見ることができる。政府からの要請に強制力がなかったにもかかわらず、人々は自主的にエネルギー消費の削減に努めた。

 政府が主導したこれらのキャンペーンについてはガロン氏の著書 "Molding Japanese Minds: The State in Everyday Life" に詳しい 。その中でガロン氏は、これらの政策キャンペーンが機能した背景として、日本の社会制度的なインフラストラクチャーの存在を挙げている。日本の社会には、政府と地元住民とをつなぐ「半公共的な組織」が広く存在していたと同氏は指摘する。そのような組織の具体例として、町内会や隣組、婦人会、青年会、在郷軍人会や貯蓄組合、各種の産業組合などが挙げられる。雑誌やポスターなどのメディアも、大衆の行動を矯正しようとする政府の試みに活用された。そして最も重要な点は、政府の役人たちがこれらの市民団体と連携して住民の「説得」を試みたということだ。こうして、日本人は貯蓄を促され、時間に厳しく行動し、国産品を買い、あるいは消費を抑えるよう仕向けられてきたのだ。

 2020年4月上旬、日本政府がソフトな「緊急事態宣言」を発出した際に、私はこの社会的なインフラがまだ日本に残っているか疑問に感じていた。「説得」に基づく政策に留まらず、強制力を伴わなければ宣言の実効性は乏しいのではないかと。しかしながら、これまでの状況を見たところ、日本には今も効果的な「説得による誘導」の構造が生きていると感じざるをえない。同時に、かつては存在しなかったソーシャル・メディアを通じた「説得」も今回展開された。

 実際、勝利宣言にはまだ早すぎるし、SNSいじめなどの問題も他方で表面化している。しかし、日本を含めたアジアの国々が多彩な手段を講じて、COVID-19への対応において相対的に成果を上げていることは特筆に値する。アジアの様々な対策事例のうち、どれかひとつが正解ということではなく、そこから多様なモデルや教訓を読み取ることができるように思う。

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