福島核災害を「美談」に仕立て上げた映画『Fukushima50』が描かなかったもの

福島核災害を「美談」に仕立て上げた映画『Fukushima50』が描かなかったもの

吉田所長をヒーローにしてはいけない

 3月6日に封切られた映画『Fukushima50』は、大津波に襲われた福島第一原子力発電所の物語だ。津波が、地下に設置されていた非常用の電源を壊してしまう。そのため全ての計器は機能を失い、電動弁の開閉もできず、原子炉の制御は手探りとなった。

 そんな暴走する原発に残ったのは、50人の作業員。多くは地元の高校出身の福島の人たちだった。彼らは、家族や故郷を守るため、高い放射線量、爆発の危険性のある現場に、何度も突入を繰り返す。

 佐藤浩市(原発の当直長役)が、最前線の中央制御室で踏ん張る。渡辺謙(吉田昌郎・原発所長役)は、東電本店や官邸からの混乱した指示に、時には逆らいながら、人間味あふれるリーダーシップで現場をまとめる。ギャラの高そうなこの二人を中心に、感動てんこ盛りの救国ヒーロー映画に仕立てられている。糸井重里は、ツイッターで「約2時間ぼくは泣きっぱなしだった」と書いた 。

 しかし、東電福島原発事故は、そんなに単純な話なのだろうか。

東海第二は対策済みだった

 映画の中で、電源の復旧を試みていた作業員がこんな会話をしていた。

 「免震重要棟の非常用電源からケーブルつなげないですかね」

 「350mあるんだぞ。こんな重いケーブル、何日かかるかわからん」

 原子炉から少し離れた高台に、吉田が陣取っていた免震重要棟があった。そこの非常用発電機は生きていた。ケーブルをそこからつなげば、原発を再び制御できるのではないかと期待したようだが、時間がかかりすぎるため実行しなかったらしい。

 ところが、福島第一から南に110キロのところにある日本原子力発電の東海第二原発は、事故前からそのケーブルがつないであった。完成したのは、東日本大震災の1カ月前。この電源対策のほかにも、敷地の一部を盛り土でかさ上げしたり、原発建屋の入り口を防水扉に取り替えたり、防潮堰を設けたりする津波対策を進めていた。

 東海第二も大津波に襲われたが、これらの工事の効果もあり、ぎりぎりで大事故を免れていたのだ。

津波対策担当の部長だった吉田昌郎

 地震の3年前の2008年、東電でも本店の技術者たちは、「福島第一でも津波対策は不可避」と結論づけていた。それにもかかわらず、東電幹部は対策を2016年まで先送りすると決めた。当時、経営状態が厳しかったためと見られている。

 その意思決定の中心にいたのは、ほかならぬ吉田だった。彼は、2007年4月から2010年6月まで、東電本店の原子力設備管理部長を務めている。津波の想定や対策の担当部長である。もちろん最終決定は、より上層の役員らであったが、津波想定潰しには、吉田にも相応の責任があった。

 そのころ、原子力設備管理部に所属する吉田の部下たちは、津波の専門家たちに根回ししたり、文部科学省の地震予測の報告書を書き換えさせたりして、東電の津波対策が遅れていることを露見させないように工作を続けていた。

 日本原電は、前述した東海第二の津波対策をこっそり進めていた。日本原電の幹部は、NHKの取材にこう話している。

 「他の電力のことも考えながら対策をやるというのが原則でして。東京電力とかに配慮をしながら、物事をすすめるという習慣が身についている。対策をやってしまえば、他の電力会社も住民や自治体の手前、安全性を高めるため対策をとらないといけなくなる、波及するわけです。だから気をつけている」

東北電力の報告書を書き換えさせた東電

 福島第一から北に115キロ離れた東北電力女川原発は、2008年11月に、大津波を予測する報告書をまとめていた。宮城〜福島沖で発生した貞観地震(869年)についての最新の研究成果を取り入れていた。

 ところがこの内容は東電にとって都合が悪く、福島第一に適用すれば想定される津波は敷地の高さを超え、対策を迫られるものだった。

 そこで東電は、東北電力に圧力をかけ、報告書を書き換えさせた。その決定がされた東電社内会議(2008年11月13日)のトップは、当時の社内メールによると吉田だったとみられている。

 2010年6月、吉田は福島第一所長に異動。わずか9カ月後、大津波に襲われる。

 映画の中で説明されるように、「想定外の大津波」ではなかった。映画パンフレットに書かれているような「人間の想定を超えた事態」でもなかった。日本原電や東北電力と同じ程度に津波対応を進めていれば、避けられた事故だったのだ。

映画は、東電の責任から目を背けた

 原作者の門田隆将は「福島の人たちに『日本が救われたこと』を私は描かせてもらいました」と述べている。

 現場で命を懸けた福島出身の人たちが大勢いるのは事実だ。しかし、東電が事前に他社並みの対策をしておけば、そんな危ないことをする必要はそもそもなかった。「無能な東電に、命を捧げさせられた福島の人たち」というのが真の構図だろう。

 

 映画の中で、佐藤浩市(当直長)は、渡辺謙(吉田所長)にこう問いかける。「俺たちは、何か間違ったのか」。吉田は、それに何も答えなかった。

 事故の捜査をした検察幹部は、ジャーナリストの村山治の取材にこう述べている。「吉田さんはまさに、事故現場のヒーローだったが、(津波対策が議論された際に積極的に動かず)そのまま福島原発の所長になった。そして、そんなこと(巨大津波による浸水)は起こらない、と思っていたことが、そのまま次々に起きた。(津波対策をとらなかったことが)心に響かないはずがない。(対策をとらなかった当事者として)忸怩たる思いがあったから、よけいに頑張ったのではないか、という気がする」

 吉田は、2012年8月、福島市で開かれた講演会にビデオ録画で登場し、以下のように述べている。

「現場に飛び込んで行ってくれた部下に、地面から菩薩が湧く地湧(じゆ)菩薩のイメージを、地獄のような状態の中で感じた。私はその後ろ姿に感謝して手を合わせていた」

 部長時代に津波対策を先送りしてしまったがために、危険な現場に部下を送り込むことになった。そこに菩薩の姿を見た。その心情を全くカットしたことで、映画における吉田の描写は、とても平板になってしまったように見える。

 映画は、事故の本当の姿を、現場の美談で隠してしまった。こんな単純な形で人々の記憶に残ることを、吉田も望んではいなかったのではないだろうか。(敬称略)

映画『Fukushima 50』(フクシマフィフティ)予告編

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