「もと5年2組のみんな……」全住民が避難した富岡町、小学校の黒板に残された“先生からのメッセージ”
原発事故で取り残され……「牛は悲鳴をあげて餓死した」南相馬市の元酪農家が語る“9年間の悔恨” から続く
どうやったら、このような削り方ができるのか。
刃物でもない、獣の爪でもない。削られた木の表面には、不思議な鋭さと丸みがある。
福島県南相馬市の元酪農家、半杭(はんぐい)一成さん(70)宅にある「牛舎」の柱である。
半杭さんは東日本大震災による東京電力福島第1原子力発電所の事故で、牛を牛舎につないだまま避難せざるを得なかった。残された牛は飢え、首の届く範囲の柱をかじりながら、死んでいった。牛の前歯は下にしかない。にもかかわらず、堅い木を命懸けで噛んだら、こうなるのか。
2400件を超える「震災遺産」
その痕跡がまざまざと残された柱のレプリカが、福島県会津若松市の同県立博物館で4月12日まで開かれている特集展「震災遺産を考える−それぞれの9年−」で展示されている。
「一見しただけでは、何の柱かよく分かりません。でも、事情を聞いていくうちに、壮絶なストーリーが浮かび上がってきます。それが原発事故による『震災遺産』の特徴です」。担当した同博物館の筑波匡介(ただすけ)学芸員(46)が説明する。
つまり、何の変哲もないモノから、想像を絶するストーリーが見えてくるのだ。
同博物館は、そうした「震災遺産」の収集を続けており、既に2400件を超える物品が集まっている。あまりに量が多くて、収蔵庫に入り切らないほどだという。そのうちの一つが、「出入口はここです」と書かれた模造紙だ。
1枚の模造紙が語る震災直後の光景
2011年3月11日午後2時46分、最大震度7の地震が発生。東日本の太平洋岸には巨大な津波が押し寄せ、福島県の沿岸部も壊滅的な打撃を受けた。同県浪江町では182人が亡くなり、中心街でも揺れで建物が倒壊するなどした。
町のロータリークラブで事務局の仕事をしていた女性は、町立浪江中学校に避難した。そこで張ったのが「出入口はここです」という紙だった。これには、単に出入口を指し示す以上の意味があった。
中学校では同日午前中に卒業式があり、避難所となった体育館は式が行われたままの状態だった。避難者は、式のために置かれたストーブを囲み、折り畳みイスに座って暖を取った。
小雪がチラつく寒い日で、夜になると凍えるほど冷えた。
「体育館には出入口が何カ所もありました。あちこち開けると冷たい風が入ってきます。そこで、1カ所に決める意味もあって張り出したのだそうです」と、筑波学芸員が解説する。1枚の紙から、あの日の情景が蘇る。
白紙の「伝言板」は何を示しているか?
「伝言板」と書いて体育館に張り出した模造紙も何枚か展示されている。ただ、何も書かれていないか、書かれていてもほんの少しだ。このようなモノに何の意味があるのか。
宮城県や岩手県の津波被災地区では、真っ黒になるほど書き込みがあった。携帯電話は通じない。家が流されてどこに避難したか分からない。そもそも生きているかどうかも分からない。必死の思いで家族や知人を探し、また伝言を残す人が多かった。
一方、浪江町では書く間もなく、逃げなければならなくなった。隣の双葉町と大熊町にまたがって立地する東電福島第1原発の暴走が止まらなくなり、発災翌日の3月12日午前5時44分、政府が原発から10km圏に避難指示を出したのだ。
浪江町は中心街も避難エリアとなり、浪江中学校に身を寄せていた人は一斉に逃げた。その後、原発で爆発と火災が相次いで、避難指示区域は拡大され、2017年3月に「帰還困難区域」を除いて解除されるまでは、全町で避難が続いた。
「同年末に博物館で調査した時、浪江中学校の体育館は、避難した時のままでした。卒業式で歌われた曲の楽譜まで残されていました」と、筑波学芸員は語る。
避難所で開かれた臨時学級
原発から40km以上離れた同県相馬市の旧高校校舎は、避難指示区域を脱出した人々の避難所になった。ここに逃げてきた小学生を対象に3月29日から4月14日まで、臨時学級が開かれた。
同市の娘宅に避難した南相馬市の女性小学校教諭が、旧高校校舎に教え子を訪ねたのが開設のきっかけだった。南相馬市は相馬市の一つ原発寄りの自治体である。この時、子供達は「することもなく、不安な日々を過ごしていた」という。
教諭が勤務していた小学校のPTA会長も、たまたま相馬市内に避難しており、話し合って臨時学級を開くことにした。相馬市内の民家に避難していた子も集まり、寺子屋と呼ばれた。展示された児童手書きの名簿には20人近くの名前が記されている。
低学年(1~2年生)、中学年(3~4年生)、高学年(5〜6年生)の3クラスに分かれ、ボランティアの教師が担任した。南相馬市から避難した教諭は中学年を受け持った。名札は段ボールを切って作った。
最初は鉛筆しかなかったが、支援物資が届いてノートが行き渡った。時間割を決めて授業し、生活のパターンを整えると子供達は落ち着きを取り戻していった。
「人間らしくあるためには、鉛筆やノートがとても大切だと実感した」と、筑波学芸員はこの教諭から聞いた。ただ、気になることがあった。
「早く家に帰りたい」「早く友達に会いたい」
臨時学級では最終日、皆で近くの神社を訪れ、花見をした。この時、大きな紙に1本の桜の絵を描き、全員が「夢」を書き込んだ。
「早く家に帰りたい」「早く友達に会いたい」
ほとんどの子がそう書いた。
「これは普通の子の夢ではありません。初めて見た時、ショックを受けました」と筑波学芸員は語る。
会場では昨年、会津若松市の子供や同市へ避難していた小学生に書いてもらった夢も展示している。これには「ケーキ屋さんになりたい」「やさしいかんごしになりたい」「アイドルになりたい」などといった文言が並ぶ。「あまりに違います。原発事故直後の子供達がどれほどの困難に直面していたか、どれほど抜け出したいと思っていたかが痛いほど分かります」と筑波学芸員は言う。
教師が黒板に残したメッセージ
同博物館は、子供達が逃げた後の学校の黒板に何が書かれていたかについても保存しており、会場では映像が流されている。
避難指示区域には放射線量が高い地区があったので、妊婦や15歳未満の立ち入りを制限する自治体が多かった。このため、黒板に記したのは主に教師だ。必要な物を取りに立ち入った時、いきなり別れることになった教え子に向けて、メッセージを書いたのだと見られる。
「ごめんなさいね。
おわかれの言葉・
あいさつもなく…ね。
これからも
がんばって下さい。
いつかどこかでまたお会いしましょう」
この文章が書かれた同県富岡町の町立富岡第二小学校は、今年2月に取り壊しが始まった。富岡町もまた避難自治体の一つである。
「もと富二小五年二組のみんな。
みんなの小学校の卒業式が見られなかったことがとても残念でした…。
また元気に会いましょう!」
子供達は散り散りに避難したため、一緒に卒業できなかったのだ。当時の小学5年生は今年、成人式を迎えた。
「きょうで最後です。さようなら」
立ち入った時ごとに、3回も記した教諭がいる。
「2011.6.12(日)
3か月ぶりに教室に
もどってきました。
卒業制作、持ち帰りたいね」
「2013.7.26(金)
1年半ぶりに来ました。
卒業制作の写真立てと家庭科の作品…
持っていける人は、さがしていってね」
「2015.11.22
きょうで最後です。
さようなら 富二小」
「先生達はどんな気持ちで書いたのでしょう。読むだけで切なくなって、涙が出ます。できれば、メッセージが書かれた黒板そのものを保存したいのですが、まだ方針が決まっていません」と筑波学芸員は話す。
展示物から浮かび上がるそれぞれの物語
原発事故で残されたモノには、必ず物語がある。今回の展示物は7人から提供され、筑波学芸員らは全員に聞き取りを行った。
浮かび上がってきたのは、被災者の力強い姿だった。
富岡町でホテルを経営していた男性は、無人になった町で最も目立つ国道の横断歩道に「富岡は負けん!」と書いた横断幕を掲げた。NTT東日本のライブカメラで映される場所だったことから、全国に避難した町民を勇気づけた。
この男性は他にも、なかなか自宅に帰れない人の代わりに避難指示区域に立ち入り、草刈りなどを行ってきた。
「出入口はここです」と張り紙をした前出の浪江町の女性は、8カ所目の避難先の神奈川県横浜市で仮住まいを続けている。しかし、海外の貧しい人の支援を行うNPOの代表になり、外国を訪れるなどして活動を始めた。
「復旧は難しくても、復興はできるのかもしれません」
「まだ避難中の人もいます。避難指示が解除されても地域は元に戻っていません。復旧はしていないのです。でも、自らの意志で復興を果たしつつある人が多いと感じませんか。復旧は難しくても、復興はできるのかもしれません」。筑波学芸員はそう気づいた。
筑波学芸員は2004年に発生した新潟県中越地震などのメモリアル施設で働いていたが、2年前に福島県立博物館へ移った。
「実は、同じような傾向が中越地震にもありました。過疎化が進む一方だった旧山古志村では、地震を機におじいちゃんやおばあちゃんが地域の魅力に改めて気づき、『俺達は一人でも生きられる。でも、一人では生きない』などと話していました。展示施設は、そうした助け合いの言葉で埋められています。もちろん、福島にはまだ震災や原発事故を乗り越えられない人が多くいます。ただ、様々な課題を抱えながらも、未来に向かっていくことはできる。今回の7人に教えられました」と話す。
同館では新型コロナウイルス対策のため、トークイベントなどが軒並み中止されたが、震災遺産の展示は続けられている。