姿を消した上野モノレール、実は「都営交通の歴史の生き証人」だった

姿を消した上野モノレール、実は「都営交通の歴史の生き証人」だった

60年以上の歴史を持つ東京初のモノレールが姿を消す

 10月31日、ついに東京初の――そして日本初の歴史を持つモノレールが姿を消してしまった。

 といっても、もちろん羽田空港から浜松町を結ぶお馴染み「東京モノレール」のことではない。上野動物園の東西を結ぶ通称「上野モノレール」のことだ。

 上野モノレールは1957年に開業した歴史ある路線で、休止の理由は車輌の老朽化。上野動物園に行かないと殆ど見る機会もないことから、都民でさえも「あー、そういえばあったなあ…」程度の認識かも知れないが、実は東京の交通史を語るうえでは非常に重要な路線であった。

「僅か300メートル」――距離は短くとも長い歴史があった都営モノレール

 上野モノレールは上野動物園の東園から西園を結ぶ全長約332メートルの路線だ。開通は1957年のことで、正式名称は「東京都交通局上野懸垂線」。短い路線といえども、遊具などではなく正式な鉄道路線である。

 まずは上野モノレールに乗ってみよう。筆者が入園したのは、JR上野駅に近く、メディアなどでお馴染みの上野動物園正門がある東園側。そのため、モノレールは東園駅から乗車することにする。

 運行最終日を控えた上野モノレール東園駅は多くの人で賑わっていた。

 それ以上に気になるのが、今では懐かしくなったレトロな自動券売機に自動ではない改札システム。東京都交通局の路線といえども、IC乗車券や都営交通のフリーパス「都営まるごときっぷ」などは使うことができない。

 150円の切符を駅員に手渡して乗車口に立つと、300メートルほどの路線とは思えないほどの重厚な橋脚が目に入る。銘板には「石川島播磨重工業(現:IHI)」と「八幡製鉄(現:日本製鉄)」の文字があり、短い観光客向け路線でありながら日本を代表する大企業が手掛けたものであるということが分かる。

 実は、上野モノレールはもともと新たな都市交通の実験線として造られたものであり、この銘板はその歴史を示すものの1つだ。

モノレール、トロリーバス、新型都電――「地下鉄」までの試行錯誤の名残

 上野モノレールが開通したのは1957年12月のこと。

 世間では1956年度の経済白書に登場した「もはや戦後ではない」という言葉が流行語となり、都内では建設中の東京タワーに注目が集まっていた当時、東京都は自家用車の増加にともなう交通事情の切迫から既存の都電(路面電車)に変わる新たな大量輸送交通機関の開発に取り組んでいた。

 そこで、導入の検討が進められていたものの1つが「モノレール」であった。東京都交通局はモノレールを都内の基幹交通の1つとすべく、実験的路線として上野モノレールの敷設を決定。常設のモノレールが建設されるのは日本初のことで、車輌と運行システムの設計は日本車輌が、桁・橋脚の設計は石川島播磨重工業が担当するなど、日本を代表する大企業が関わることとなった。

 上野モノレールが採用したのは、軌道桁の上側にタイヤを置き、片腕でぶら下がって走るという新方式。車輌の上を良く見ると小さなパンタグラフが載っており、その上に架線、そしてその上に桁、さらにその上側をゴムタイヤが走行するという仕組みだ。

 現在、上野以外に桁にぶら下がって走る懸垂式モノレールは国内に3社4路線あるものの、この片腕懸垂方式は鉄道車両製造大手の日本車輌と東京都交通局が独自に開発したもので「東京都交通局式」「上野式」とも言われる。現在まで、この方式を採用したモノレールは世界で唯一となっている。

 東京都交通局は、このほかにも上野モノレールの建設と前後して、1952年には都電の一部路線を転換するかたちで「トロリーバス」を初導入、1954年には新たに米国の技術を用いた高性能路面電車「PCCカー」を新規導入、さらには都電の連結運転の検討を開始(実現せず)するなど、様々な実験的施策をおこなっていた。

 しかし、上野モノレールが開通した1957年には都市交通審議会が「都内の地下鉄は営団地下鉄(現:東京メトロ)が運営する」というこれまでの原則を転換し、東京都交通局が地下鉄運営に参入することが決定。1960年には、営団地下鉄が所有していた建設免許の譲渡を受けるかたちで都営地下鉄初の路線となる1号線(現:浅草線)の一部区間が開通した。

 この結果、トロリーバスについても1958年の延伸を最後に路線の新設がおこなわれなくなり、当初トロリーバスの新設が計画されていた区間には都営地下鉄三田線が建設されるなど、これ以降、都営の新たな鉄道路線はモノレールなどではなく殆どが「都営地下鉄」として建設されることとなった。

 その後、都営のトロリーバスや高性能路面電車は、急激な自家用車の増加にともなってその威力を発揮することさえ叶わず、いずれも1960年代末までに姿を消してしまった。上野モノレールは東京都交通局の地下鉄参入が決まるまでの「新たな交通体系を模索していた時代の数少ない名残り」の1つであるといえるのだ。

時速15キロ、僅か1分半だった空中散歩――果たして復活は?

 上野モノレールの最高速度は時速約15キロメートルで、乗車時間は僅か1分半。短い空中散歩のあいだには、かつて都電が走っていたという通称・動物園通りや、西園に建設中の新・パンダ舎を見ることができる。

 新しいパンダ舎の完成後にはパンダとモノレールを一緒に撮影することができそうだが、果たして営業の再開はあるのだろうか。

 現在の車輌は2001年にデビューした40形で、古い設備とは裏腹に車輌は比較的新しく見えるものの、営業休止の理由は「車輌の老朽化」だという。先述したとおり、上野モノレールは世界唯一の方式を採用している。そのため、故障したとしても部品は多くが「特注品」となってしまうのであろう。実際、上野モノレールは過去に何度が車輌故障に見舞われているが、そのたびに「長期運休」してしまうことも少なくなかった。

 東京都交通局は、将来的には上野モノレールの運行再開を検討するとしていながらも、東園-西園間は歩いたとしても僅か10分弱の距離。さらに、11月からはシャトルバスの運行も開始されるということで、コストが高いモノレールの早期運行再開は難しいかも知れない。

全国各地を走る「街のジェットコースター」

 さて、先述したとおり、上野モノレールのように桁からぶら下がるかたちの懸垂式モノレールは世界的にも採用例が少ないものの、日本では上野以外にも3つの都市で見ることができる。その3路線はどれも個性的なものばかりだ。

 なかでも1988年に開通した「千葉都市モノレール」は、2路線合わせて約15.2キロメートルの路線長があり、世界最長の懸垂式モノレールとして知られている。

 千葉市ではフィルムコミッションと協力するかたちでテレビドラマやアニメ作品の舞台誘致を積極的におこなっており、作品にモノレールが登場することも多く、また成田空港からも近いため、アニメを見て「近未来的な鉄道だ」として海外から乗りに来る観光客も少なくないという。

 千葉都市モノレールで圧巻なのが、千葉駅前の百貨店「千葉そごう」の低層部分をモノレールが跨ぐ部分。そごう中層階から低い位置を走るモノレールを見上げることもでき、迫力満点だ。

 また、JR大船駅と観光地・江ノ島を僅か14分で結ぶ「湘南モノレール」は、近年は「湘南ジェットコースター」の異名を持つことでも知られる。

 湘南モノレールの醍醐味は、最高時速75キロメートルで起伏の大きな鎌倉・藤沢市内を駆け抜けること。懸垂式モノレールでは珍しいトンネルを抜けると車窓には湘南の海と富士山が広がる。

 ちなみに、同社はもともと三菱グループの企業であり、上野モノレールと同様に「三菱におけるモノレール事業の実験的路線」という意味合いも持っていたものの、2015年からは三菱グループを離れ、産業再生機構をルーツに持つ交通機関の再生事業を手掛ける企業「みちのりホールディングス」の傘下となっている。近年まで1971年の全線開通時からあまり変化が無い古い設備が特徴であり、IC乗車券すら使えなかったが、みちのり傘下となって以降は設備のリニューアルが進んでおり、2019年現在は各種IC乗車券が使えるようになった。

 終着駅・湘南江ノ島駅のホームは地上5階。この駅舎も2018年12月にリニューアルされたばかりで、5階部分にはテラスが設けられており、晴れた日には富士山まで一望できる。ぜひ天気のいい日に訪れて欲しい路線だ。

 最後に紹介するのは、広島市のニュータウンにある懸垂式モノレールとロープウェイを組み合わせた新しい交通機関「スカイレール」だ。

 こちらは1998年に開通したもので、JRの駅とニュータウンとを結ぶアクセス交通という位置づけであるが、もちろん一般の人も乗車可能。ニュータウンは高台にあり、路線はかなり傾斜があるため、ダイナミックな車窓を楽しむことができる。

 上野からは姿を消したものの、全国各地で見ることができる個性的な懸垂式モノレールたち。旅行に出かけた際には「車下」に広がるダイナミックな景色を楽しみつつ、その元祖である「上野モノレール」にも思いを馳せてみてはどうだろうか。

<取材・文・撮影/若杉優貴(都市商業研究所)>

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