「ミスターニコン」後藤哲朗さんが語る「あの名機Nikon F3」の開発秘話

「ミスターニコン」後藤哲朗さんが語る “あの名機”の開発秘話

 2019年6月25日。ミスターニコンこと後藤哲朗さんがついにニコンを去る。ニコン社員として46年、カメラに関わって実に44年間の長きにわたり開発に携わったことになる。後藤さんに入社からのニコンカメラの開発経緯と今後のカメラの業界の展望、退社後の生き方について赤城耕一が聞く!

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――ニコンに入った経緯は?

後藤:あるメーカーの入社試験で採用されず、ニコンに入ったのです。もともと電気屋ですから、当時はカメラも純メカニズムで作る会社のニコンに対し、あまり忙しいことはないだろうという甘い考えで。電子化の波がすぐに来ましたから大きな間違いでしたね。

――ニコン入社当初から、カメラの開発だったのですか?

後藤:いえ、入社から最初の2年半は産業機器の開発でした。赤外線映像装置、サーマルカメラを作っていました。人体や物体の表面温度がどれくらいか画像で見えるもので、製品も当時の先輩との仕事もとても面白かったですよ。でも、オイルショックの影響で撤退することになり、カメラ設計部に異動になりました。

――最初に担当したのはF3(1980年発売)ですよね。新人としては大きな仕事だと思いますが、当初からAEを搭載する仕様だったのですか。

後藤:そうですね、当初はF2をベースにしたAE化を考えていましたが、途中で断念。いっそうの電子化をするために忙しくなりました。もともとF2のシャッターを電子シャッターに仕立て直し、さらにファインダー測光の結果をボディーに伝えなくてはなりませんでした。AE化するにはややこしく、あまり近代的ではないと、一からの作り直しです。当時は最年少の設計者としていろいろな勉強をしながら、F3では6個のIC中2個の設計と回路の実装設計を一人で担当しました。

――ニコンのカメラは保守的みたいな言い方をされますけど、新型カメラは常に先進的な機能を採用していたと思います。F3でも、液晶表示とかLEDのセルフタイマーとかTTL自動調光とかも採用しています。AFファインダーを用意したF3AFまでありますね。

後藤:そのとおりです。ニコンFの時代から開発理念に自動化があり、新しいカメラには常に先進機能を入れるコンセプトのある会社なのです。最近ではGPSやWi-Fi(無線LAN)、動画もニコンが先んじて搭載しました。ただし最初だから搭載するのが精いっぱいで、使い勝手には課題があるものもありましたね。

――F3では、シャッターが横走りだったのは疑問でした。

後藤:横走りだと、どうしても最高速度とストロボ同調に限度があったのですが、当時の縦走りシャッターでは耐久力とか動作音の問題がありました。

――88年に発売されたF4で本格的なAFが搭載されます。

後藤:電気回路系のリーダーでしたけれど、プロの方からはずいぶん怒られました。ライバルのEOS-1と比べてAFの性能がいま一つだと。

――私の記憶ではニューフェース診断室の診断ではGチャート(グラデーションのチャート)でAFが合焦すると、当時のドクターだった小倉磐夫先生の評価が高かった。つまり人間の肌に合うと。

後藤:そうでした。コントラストの低いGチャートに合焦させるのはいちばん難しかったですね。さらに予測駆動フォーカスで被写体の未来位置を予測できました。これも苦労して。予測駆動はなんとか搭載に間に合いましたね。

――縦走りシャッターが採用されて、New FM2と同じく250分の1秒シンクロもできる。

後藤:F4はプロユースですから、初めての縦走りシャッターの耐久性を達成するのが大変でした。今ではもう問題ありませんので、とても懐かしい苦労です。

――F4にはマルチパターン測光が採用され、TTL自動調光は高精度でプロの間でも信頼性が高いと評判でした。250分の1秒シンクロだから日中シンクロがしやすくて、しかもちゃんと適正露出になる。報道畑の仕事ではずいぶん助けられました。

後藤:当初からニコンのスピードライトの精度は安定していました。今でも同様の評価を頂いています。

――FマウントカメラではF4が新旧のレンズにかかわらず互換性に一番優れていてお金がかかっていますよね。

後藤:世界中で最も複雑、Fマウントカメラの中で最も面倒見のよいのがF4で、F3AF用の交換レンズまで使えます。

■F4の反省をもとに、F5では開発責任者

――96年に発売されるF5では開発の責任者でしたね。バッテリーが一体型になって大きくなりましたけど。

後藤:F4ではグリップに単3電池、F4Sでは二つに分かれたケースにバッテリーを入れるのも難儀しましたね。そんな大きなF5ではなく、小さいボディーを望まれる方はF100を使っていただくということにしました。発売にズレはありますが、F5とF100の企画と開発はオーバーラップして進行していました。

――多点測距AFでしたが、選択した測距点が黒く、濃く表示されます。

後藤:EC(エレクトロクロミック)ですね。黒く表示するところ以外はほぼ透明で、液晶よりもコントラストが高い特性があります。ただ、温度変化に敏感で、温度ごと微妙に電圧をコントロールするのが大変でした。

――ファインダー部がチタン外装。ボディーがアルミダイキャストになりました。

後藤:F4ではエンジニアリングプラスチックを多用しました。今から考えても丈夫な素材で、実際に丈夫ではあったのですが、それまでの金属カメラに対する印象に比べてよろしくなかったようです。それへの反動から、「これで文句あるか!」とオール金属、しかもペンタには無敵のチタンを採用したのです。

――交換ファインダーが売れないと嘆いていたことを覚えていますが、F5はファインダー交換可能な最後のカメラになりました。

後藤:Fの時代から、交換ファインダーは時代を経るに従って使われる数量が減少し、その影響で価格が高くなっていったこともあるのでしょう。

――F5は全体のフォルムとかカメラ部のメカニズムとか、今のデジタル一眼レフに共通するものがあります。

後藤:そうですね。フラッグシップのF4、エントリーからミドルクラスのF50やF70、F90など、操作系がバラバラだったこともあり「ニコンは会社が幾つあるのか?」などと言われたものでした。F5時代にようやく統一できたわけです。

――そしてデジタル一眼レフのD1が99年に登場します。

後藤:D1の開発は、社内でも一部の人しか知らないトッププロジェクトでした。私はD1用のカメラボディーと、AEやAF、新たなストロボシステムなど撮影に関わる機能を提供しました。

――簡単ではなかった?

後藤:撮像センサーや画像処理エンジンそのものが高くて大変だったようです。開発スタート時にはセンサー1個100万円という話を聞いたこともありました。

■デジタル化へ「APS-C機に救われる」

――実際に担当したのはD1Hからでしょうか。D2H/D2Xが出たときも、DXフォーマットで十分いけると後藤さんが話していた覚えがあります。今でこそDXフォーマットのカメラも役割分担ができて認知されていますけれど。

後藤:当時のニコンは、FX(35ミリ判フルサイズ)フォーマットのカメラを思いつく前の話ですね。D2Hに対しては、AFや高感度画質、トリミングなどの性能が足りず、世間から否定的な意見、さらにニコンにはそこまでの技術しかないなどという風評もありました。もっと前から市場に出てお客様の声を直接聞いておけばと、今でも悔やんでいます。ただその苦しいときにD100やD200が助けてくれましたね。DXの軽快さが認められてその後のD300、D500などに続きます。

――そしてついに35ミリ判フルサイズセンサーを搭載したD3が2007年に発売されます。今でも十分に通用しますね。最近のカメラという感じすらするのは自分がトシを食ったからですけど。

後藤:もう12年前の、文字どおりひと昔前ですね。いま見ると少し肌色の再現が黄色いくらいでしょうか。これだけは直したいですね。

――プロ用のフラッグシップ機と銘打っても、実際はアマチュアが主なお客様なので、あまりプロの意見を聞かないほうがいいと思うことがあるんですよ。

後藤:なんで最初からやらなかったのだろう、もっとプロとアマチュアの市場を見て要望を聞かなかったのだろうと思うときがあります。フラッグシップ機はプロに認めてもらうカメラであり、一般の人が憧れるカメラでなければなりません。大きくて重く、しかも高価でも、酷使してもちゃんと撮れる。そしてニコンにとっては必ず売れなければなりません。

■デジタル化以降のフィルムカメラ

――少し話を戻しますが、04年にF6が登場したときも衝撃でした。本当にいま新しいフィルム一眼レフをやるのか?みたいな。あれは後藤さんの企画?

後藤:いや、さすがに私だけではありません。D2Hも同時期でしたし、「これからデジタル時代なのにフィルム一眼レフとはなんだ!」という声もかなりありました。AEやAFに同じデバイスを使ったり、画像以外のデジタル技術をフィードバックしたりして効率を上げてF6を作りました。

――デジタルカメラの技術をフィルムカメラに応用した唯一無二のカメラだとよく原稿で書くんですよ。F6はフィルム一眼レフだから、DXフォーマットのD2Hよりファインダーが大きくて魅力的でした。あたりまえですけど。

後藤:そうですよね。F6はもう15年目、さすがに今では生産数も少ないのですが、工場ではベテランが担当しています。そろそろ最初のニコンFの販売期間15年弱という記録を塗り替えそうです。21年間のF3には及びませんけれど。

――01年に発売されたFM3Aも驚きでした。

後藤:設計課長として参加しました。

――当時Nikonのロゴが斜体になっていることを指摘したら、後藤さんは「大丈夫です。見慣れますから」って。でもDfのNikonのロゴはまっすぐです。

後藤:あれ? そんなこと言いましたっけ? ま、その後のDfで実施しましたのでお許しください。

――ファインダー内表示も指針式でした。

後藤:FM3Aのチームリーダーは私の先代の課長ですが、志の高い人で、完全なハイブリッドシャッターも含めて実現しました。いま考えても面白いじゃないですか。大変好評でしたが、その後さる環境規制が施行されて材料を変えなくてはならなくなり、再設計の採算が合わないと判断して、FM3Aの継続は残念ながら諦めました。

――D4からは担当されていない。

後藤:それからは社内の小じゅうと役を務めていましたから。それでも、試作品が披露されるとちゃんとバグを見つけますよ。「おいおい、なんでこんなレベルなのかい?」って。

――09年には後藤研究室ができ、Dfが開発されます。

後藤:カメラの操作性はメーカーが違っても多くは皆同じになって、つまらないですよね。カメラは趣味嗜好品ですから便利さの追求でなくてもいいでしょう。そこでDfを企画しました。

――Dfでは、F5でなくなったシャッターダイヤルが復活しました。コマンドダイヤルでも設定できますね、普通のデジタル一眼レフみたいに。だから好きなほうを選べる。

後藤:機構も回路もそれまでのカメラに比べれば複雑になりました。ただダイヤルについては、ベアリングなどの設計がもっとうまければ感触が上がったと残念に思います。今ではそのような設計ができるか、作れるか……お金もかけられないでしょうし。

――Ai連動ピンの跳ね上げもできるから古いニッコールオートのレンズも装着できる。

後藤:多くのニコンファンがいまだに大事に持っているレンズも使えるようにと。現行のニコンデジタル一眼レフでは唯一です。

――古いレンズが使えるのはニコン独自のものというか、優位性というか。ただ、装着できないレンズがあると、誰が責任とるんだということになりかねない。

後藤:メーカーは安全第一を考えますからね。いまのZ 6とZ 7はフランジバックが16ミリ。マウントアダプターをもっと生かせればいいと思うのですが。

――もうDfは5年以上になりますね。他のメーカーにはできない製品でもあります。

後藤:一方で、たくさん売れるカメラではないと思っていましたし、実際に(数字的に)成功したカメラではありません。

――それは発表会のときにも後藤さんが話してましたけど、もう一声って感じで。いまカメラ業界はあまり景気のよい状況ではありませんが、どうしたらいいでしょう。

後藤:どうしましょうかねえ。ニコンは昔からカメラ(やレンズ)で会社を養っている、数少ないメーカーです。そんな立ち位置から、失敗が許されない事情を考えながら、しかも他のメーカーとは異なる機材を提供しなくてはなりませんね。

――スマートフォンがあって、常にカメラを持っている時代。あえてカメラを買うって、理由が必要です。

後藤:ニコンには待っていてくださる我慢強いお客様が大勢おられます。入手しやすい機材だけではなく、憧れの存在の製品も不可欠です。そんな製品はきっと総量は減るでしょうね、趣味嗜好品ですから。でもそれを満足させるカメラがなければ、ライバルメーカーとの違いがなくなり、存在価値も薄れてしまいます。

――Dfと少し似たような趣味性を追求したオリンパスPEN-F、富士フイルムX-Proシリーズなどもメディアでは手厚く取り上げるし面白いとは思うのですが、実際にはそうたくさんは売れない。そこが謎なのです。

後藤:「安い価格でお買い得」という製品も必要でしょうが、高い価値を持ってさえすれば、高い価格でもよいのではないかと思います。

――後藤さんの代わりになるような、話ができるスポークスマンがニコンからいなくなってしまいます。

後藤:思い出してみますと、もともとニコンという会社は管理が徹底的に行き届いていて、カメラやレンズを黙って差し出す会社なのです。私のように出しゃばる人間はいないタイプの会社でした。いまの若い人はあまり表に出たがらない人もいるようですが、お客さんから直接アドバイスをいただけることも多いので、もっと会いに行けばいいのにと助言しています。

――古い話ですけど、ニューフェース診断室でFが酷評されたときにニコンの若い設計者が編集部に殴り込んできたという逸話がありました。ニコンとアサヒカメラは縁があったし、意見をいう人が多かったのでは。

後藤:いわゆる「青年将校殴り込み」ですね。確かにいま読んでも酷評されています。乗り込んだ設計者は自分の先輩なのですが、自分たちの製品に自信があるのに、それをどうしてあのような評価になるのかじかに話を聞きたい、という積極的で、設計者のあるべき姿だったようです。

――後藤さん、ニコンを去ってしまうわけですけど、Dfの後継機で仮にDf2のような企画はないのですか。

後藤:あまりにも直接的すぎて、それは申し上げられませんね。ただ後藤研究室としていろいろな検討資料を残してありますよ。例えばお客様の声をひもといて、どこをどう改良すればよいかなどと。また多くの方が知っていますが、ファンミーティングではZfという名前で出してくれと製品名まで決められていました。

――後藤さんはこれから外に出てカメラアドバイザーになるのですか?

後藤:さて、どうしましょうか。これからゆっくり考えます。ただこれでニコンときっぱり離れるわけではありません。ニッコールクラブ会員さんを前にしてお話しするイベントが、来月から国内数都市で予定されているくらいです。ニコンとの縁はまだまだ続くでしょう。

(聞き手/赤城耕一)

※アサヒカメラ2019年7月号より抜粋

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