「サブスク」という日本語の弊害、「サブスクリプション」というカタカナ語の定義の問題

「サブスク」という日本語の弊害

 ある意味で、これは自分に対する反省でもある。難しい話ではないが、けっこう深刻な話題でもある、と思っている。

 それは「サブスクリプション」というカタカナ語の定義の問題だ。

 6月6日(現地時間)、Googleは、クラウドゲーミングサービス「Stadia」の価格やスタート日などを発表した。

 サービスの内容に問題はない。ポイントは、このサービスについて、日本では次のように解釈が別れて認識されたことだ。

「月額9.99ドルを払うと、サービスの対象になるゲームが遊び放題」

「月額9.99ドルを払うと、サービスが利用できて、一部のゲームが無料で楽しめる」

 これ、正解は後者である。サービスの利用料金を払うと4K+5.1chサラウンドでのゲームが楽しめるもので、「会員には追加費用なしで楽しめるゲームもある」し、会員向けにゲームのディスカウント販売もあるが、ゲームが遊び放題になる、Netflixなどのようなサービスではない。ゲームはあくまで、一本一本買う必要がある。

 なぜ前者であるかのような誤解が生まれたのか?

 理由は2つある。

 1つめは、3月のサービス発表時からの噂として「ゲームが遊び放題になる」というものがあったからだ。類似のサービスである「PlayStation Now」が月額制の遊び放題型であることもあって、Stadiaもそうではないか……という誤解が広がったのだろう。

 2つめは、多くの記事で「サブスクリプション」という言葉が使われていたことだ。サブスクリプション、という言葉を聞くと、なにを思い浮かべるだろうか? 今だと、NetflixやSpotifyのような「使い放題」系サービスを思い浮かべるのではないだろうか。

 昨今、ビジネスモデルとして、毎月の利用料金を支払うと「使い放題になる」、というものが増えているのは事実。ホテルの泊まり放題や衣服のレンタルし放題など、デジタルコンテンツを超えた広がりを見せている。ビジネス誌などでは「サブスク」の4文字に短縮されることも増えてきた。

 そのため、「サブスクリプション」という言葉を聞くと我々は、「なにかが使い放題になる」という印象をもちやすくなっている。

 だが、英語における「Subscription」には、本来「使い放題」という意味はないのだ。単なる「定期支払いによる会員制」という意味しかない。会費支払いに伴い利用権が得られる、という建て付けであり、その結果として「サービスが利用できる」のか「なにかが使い放題になるのか」は別の話だ。

 Stadiaは日本でサービスが始まらないため、海外でのニュースリリースやストリーミングでの発表をベースに記事が作成されている。だから、そのままカタカナで「サブスクリプション」にすると、それに引っ張られて勘違いする人が増えてしまうのだ。

 この場合、日本語で説明するなら「月額9.99ドルの会員制サービス」とするのが、おそらく一番誤解がない。使い放題が含まれる場合には、そう併記すれば、やはり誤解がないだろう。「定額制」だと、サービス側が時によって価格が変わるような印象を与える。「定額制」という言葉も、サービスそのものの利用料金とは別にコンテンツや機器などの利用料金が含まれ、一定額以上の請求がない場合に使うべきだろう。いわゆるカタカナ語の「サブスクリプション」は、「定額制」とほぼ同義で使われている。

 なぜこうなったのか?

 その点については、筆者も反省がある。筆者はもっとも初期から、「会員制の使い放題サービス」としてのサブスクリプションを取材し、紹介してきた自負がある。数年前まで、日本人にとって、「会員制の使い放題サービス」は目新しい概念だった。特にデジタルコンテンツにとってはそうだろう。諸外国に比べれば、今も「会員制の使い放題サービス」が定着しているとはいえない。

 その過程で、人々は「サブスクリプション」というカタカナ=使い放題系という目新しい概念、というイメージを持つようになってしまったのではないか。その原因のひとつは、記事の中でその種のサービスを「サブスクリプション」という言葉で解説したことにあるのではないか。

 もちろん、筆者としては「サブスクリプション」というカタカナに、「会員制」以上の意味を持たせる意図があったわけではない。というか、「使い放題=サブスクリプション」という言葉を定着させようという意思をもって言葉を使っていたわけではないのだ。

 ただ、後に紹介する人々は、使い放題系という概念を含んだものとして「サブスクリプション」という言葉を使っているし、現状筆者も、誤解を避けるために、使い放題が軸でない場合にはサブスクリプションという言葉を使わないようにしている。

 こうした、英語と日本語での「概念のねじれ」はたくさんあるものだ。特にIT系では珍しくない。

 しかし、それは本当にいいことなのだろうか? 言葉とはそういうもの……ということもできるが、やはりいいことではない。同じ言葉を使っているのに、英語圏の人々と我々との間で認識がずれて、誤解が発生する可能性が高いからだ。今回のStadiaの件は、まさに好例といえる。

 初期に使う側がちゃんと配慮して、その後も徹底することで、概念のねじれを回避することはできるのではないか。

 そう考えると、筆者にも責任の一端があるように思えるし、少なくとも、「誤解が広がる可能性がある」と警告はできただろう。そこに反省がある。

 ITは海外から文化・技術流入で成り立っている。本当は日本から海外にもっと発信し、「日本語の言葉が間違って英語で定着する」くらいになるのがいいのだろうが、そうはいかない。だからこそ、元の言葉のニュアンスと日本での「カタカナ語」のニュアンスの戦いは日常茶飯事だ。あまりにあたりまえになりすぎて、そこに鈍感になっている。

 筆者のような立場としては、改めてちゃんと考えねばならない……と思った次第だ。

(西田宗千佳)

🍎たったひとつの真実見抜く、見た目は大人、頭脳は子供、その名は名馬鹿ヒカル!🍏