好景気でも賃金が伸びない理由は企業の投資行動の変化にあった
2月上旬の株式市場の大幅下落には驚かされたが、日本経済が順調に回復しているとの評価を覆すほどのものではない。2012年12月から始まった景気拡大は、高度成長期の「いざなぎ景気」を超え、「戦後最長景気」(2002年2月~2008年2月)に次ぐ2番目の長さになったという。
むしろ、なぜこんなに長く好況が続いているのに「実感がない」と多くの人が感じるのか、を解き明かすほうが大事なテーマだろう。そして、それには理由があるのだ。
2000年代以降の景気拡大「実感なき好況」の理由
2002年以降、日本経済は大きく分けて2つの好況を経験している。
一つは、前述した2002年から2008年にかけての戦後最長の拡大期(以降、前期)であり、もう一つが2012年末から足元に及ぶ景気拡大期だ。
2014年に消費増税があったことで景気の振幅は大きくあったものの、それも含めれば景気の拡大期間は前期にほぼ並ぶ。
この二つの長い景気拡大局面で共通するのが、どちらも「好況」の実感が乏しいとされていることだ。
実は、二つの拡大局面は、似たようなパターンで景気が回復しているのではなく、前期と後期でも、企業の行動にはさまざま々な側面で“変化”が生まれている。
一つは企業の利益率を高めた牽引役が変わっていること、つまり利益の上げ方が変わったことだ。もう一つは、企業の投資行動の目が海外に向いていること、つまり稼いだお金を使って将来の利益をどう上げるかが変わってきた。
後者の方が、より利益率が高くなっていることは確認できているのだが、それでもまだ、実感までは回復していない。
利益率改善に貢献したのは「02~08年」は人件費抑制
前期の拡大局面は、新興国の高成長に引っ張られて、日本企業は輸出と現地法人の事業を通じて売り上げを拡大した。
海外企業との競争もあって、その期間は、人件費をいかに抑制して利益率を高くできるかが、経営者には至上命令だった。
だが、過去最高益を記録する企業が続出する中で、雇用者への積極的な分配は後手に回った。これが、デフレをより長くさせた原因の一つだ。
下の表では、企業の利益率が何によって改善したかを、前期と後期で比較している。ここでは、利益率について売上高経常利益率(経常利益÷売上高)で評価することにする。
前期では、期間中に売上高経常利益率が、景気拡大が始まった初期の2.4%から3.8%へ上昇した中で、それを牽引したのは人件費率(人件費÷売上高)の低下だった。
この間に、製造や営業活動でサービスを販売することにかかる中間コストにあたる売上原価比率は、78.0%から79.1%へと上昇した。
これは、原価の上昇の影響を打ち消すためのしわ寄せが、人件費の抑制に集中したと言える。
「13年~現在」は原価抑制高収益、働き手には回らず
一方、後期の今回の景気拡大局面では、人件費率は前期に比べるとさほど下がっていないのに対し、売上原価比率が低下しており、これが利益率の向上に貢献する構図になっている。
人件費の売上高比率が前期ほど下がらなくなったことについては、人件費がこれ以上に下げることができない限界まで下がった結果、横ばいにとどまったともいえるだろうし、パートなどで働く女性が増え、産業全体でみた働き手が増えていることが、売上高に対する人件費が以前ほど下がらなくなった理由ともいえる。
一方で、原価率が下がったのはなぜだろうか。
好景気では、材料や部品の値段が上がることで、売上原価率は上昇するというのが一般的な理解かもしれない。
だが、仕入れる側の企業の(引き下げ方向での)価格交渉力が強まったり、(好景気でも)商品市況など外部環境の変化で、いわゆる川上部門の価格が下落基調にあるときには、原価率は下がり得る。
また、製造業では自社の生産ラインで部品や材料を製造・調達することで中間コストを抑えたり、小売業であればインターネット販売にシフトして店舗を持つコストを減らしたり、営業・サービス部門の一部を外注したりすることなどでも起こり得る。
だが今回の景気拡大局面で原価率が下がっているのは、過去の例に見たように、親会社が子会社や関連企業に対して納入する部品の価格引き下げを強化しているというより、市場構造の変化を少なからず反映したものだと考えられる。
近年、デジタル革命やロボティックス、AI技術の導入など、生産性向上に向けた企業の行動は幅が広がってきている。
こうした先進的な技術とそれを実現させる設備投資の増加や、不採算部門を積極的に圧縮したり外注化したりするといったスクラップ・アンド・ビルドを進め、その結果、売上原価率の抑制と利益率の改善を実現させていると見える。
あるメディアが上場企業に対して実施したアンケート調査 によると、生産性向上のためのIT投資で具体的に何を検討しているかを質問した項目で、5割強の企業が、ネットワークサーバーの仮想化やIoT促進などのインフラ関連投資やソフトウェアやアプリケーションの導入などの新規の投資に前向きなことが確認できている。
より多くの投資資金はM&Aに企業の株式保有が急増
いずれにしても、今回の景気拡大局面では、売上高に対する人件費の比率をさらに下げることに企業が神経をすり減らしているのではなく、利益率の向上は、売上原価の抑制など、それ以外の費用項目で実現しようとしているように見える。
こうした利益率の構造変化を目の当たりにすると、後手にまわっていた雇用者への分配がいよいよ積極的になるか、と期待を持てるのだが、残念ながらそうした動きにはまだつながっていない。
実は多くの資金は投資資金としてM&Aに投下されているからだ。
次の表では、企業のバランスシートの変化に着目し、安倍政権が発足した2012年末と、直近(2017年9月末)の主な勘定項目の実額と、その差分を示している。
よくある議論は、負債項目の利益剰余金が、アベノミクスのもとで、115兆円も増えており、直近の残高は389兆円にまで膨らんでいることへの批判だ。
企業は内部に金をため込んで、従業員への分配や投資に使っていないというわけだ。
利益剰余金は全て現預金で保有されているのではなく、なんらかの資産でも保有されているから、利益剰余金だけでそれを判断するわけにはいかないが、ある程度、変化の大きい資産項目を見てみると、確かに流動資産項目のうち現預金はこの間、57兆円増えている。
流動性比率が高まっているとの批判は、間違いではない。
しかし、注目すべきは、同じ期間、それ以上の勢いで固定資産項目のうちの株式が89兆円も増加していることだ。
この固定資産項目に計上されている株式の取得は、短期間の売買目的の有価証券投資ではなく、企業を買収した際の株式の取得が簿価で記されている。
買収先の企業が国内なのか、海外なのかは、この統計からは読めないが、国をまたいだ資金の出入りを補足できる国際収支統計で見ると、日本から国外への直接投資が増えている。
資金力のある企業が海外の企業を買収する勢いが強まっていることは明らかだ。
キャッシュリッチな企業は自己資本を投下し、さらにM&A資金を金融機関から調達しながら事業を拡大する動きが大企業中心に増えている。
企業にとっては、市場の成長性や金利などが高い海外のほうが国内よりも投資利回りが相対的に高いとの判断だろうし、この基調は今後も変わらないと思われる。
だが一方で、その分、国内では、設備投資が伸びないことで関連企業の売り上げも伸びないし、雇用も増えそうにない。
かつてのように企業の投資が、雇用を生み、賃金が上がって消費が増えるといったメカニズムは働かなくなる。それどころか、海外で買収した企業や事業部門が伸びるとなれば、国内で展開している事業を縮小し雇用を減らすということがより加速する恐れもある。
日銀の緩和マネーが実物投資に回っていないこと裏付け
日銀による超緩和政策は、企業が積極的に低金利を利用することで国内向けの投資が増え、それが生産性の向上と、資金需要の増加によって国の中のおカネの巡りが良くなることが大きな目的の一つだ。
だが、企業の投資資金が海外の企業買収に向かっていることは、実物投資や働く人への還元よりも、金融投資に傾倒しているように見える。
時間を経て、こうした投資の範囲が広がっていけば、いずれ国内の設備投資や資金需要も回復し、日銀の緩和政策も本来の効果がようやく発揮されるかもしれない。
言い換えると、その段階に至ってようやく、雇用者への所得の還元が積極化する程度なのかもしれない。
市場が「逆回転」すればますます遠のく働き手への還元
ただ、企業によるM&A投資の累積は、株価など資産価格の変動によって、財務体質が突然、悪化することもあり、「逆回転」がかかればその後の展開は早いことには要注意だ。
「日銀がここまで低金利でお膳立てしたにもかかわらず、企業は何もせずにキャッシュばかり溜めている」という批判はよく聞くが、低金利を利用する形でのリスクテイクが起こっているところでは確かに起こっているのである。
現在、多くの人が関心を持っているのは、景気拡大がそろそろ失速するのではということや、先月に起きた世界同時株安のような株式市場の急変がまたいつ起きるのかどうか、だろう。
株価の下落が理由は何であれ、長引き、それが景気後退を招いてしまうと、企業買収を進めてきた企業は買収先の「のれん代」を減損処理する必要性に突如、直面する。
となれば、企業は雇用者への所得還元どころではなく、また保守的な経営に戻ってしまうだろう。
日本企業の利益率は向上し、人件費圧縮に必要以上に頼らずとも利益を確保できる体質になったのは明らかに良い変化だ。だが実物投資と異なり、近年見るような金融投資としての拡大は、市場価格の動向によって逆回転がかかり始めたらその調整スピードが過去以上に早くなってしまうリスクがあることに要注意だ。
そして仮に市場の安定、景気拡大が続いたとしても、多くの人には「実感のない好況」が続く。
(三井住友銀行 チーフ・エコノミスト 西岡純子)
