<震災6年半>親友の死、今語る 東松島の18歳
東日本大震災の津波で同級生の女の子を亡くした私立大1年の添田あみさん(18)=宮城県東松島市=が10日、自らの体験を話す語り部活動を始めた。震災から6年半。人前で語ることができなかった親友の死を言葉にすることで、あの震災と改めて向き合い、そして前に進もうとしている。
◇「自分の中でも風化、だからこそ」
「あの時、私が『帰っちゃだめ』と言っていれば、親友は助かったかもしれない。ずっとそう思っていました」。かさ上げ工事の進む同市大曲浜地区。強い海風に土煙が舞う中、添田さんは仙台市の大学生ら約30人を前に声を震わせた。土盛りされたその場所は、かつて親友の家があった。
震災当時、添田さんは小学6年。親友と「中学の吹奏楽部で一緒にサックスを吹こうね」と約束していた。卒業式を目前に控えた2011年3月11日、地震が起きた。校庭に避難した後、近所の住民が添田さんを迎えに来た。「バイバイ」。一言だけ言って、親友と別れた。それが最後の会話となった。
親友の死を耳にしたのは、3月末に延期された卒業式の2日前だった。人を笑わせるのが好きだった親友。悪い冗談だと本気にしなかった。しかし式当日も親友の姿はなく、席にはランドセルだけが置かれていた。親友は小学校より海側の自宅へ戻り、津波にのまれたと担任の教諭から聞かされた。頭が真っ白になり、涙が止まらなかった。
「なんで私が助かって、あの子が助からなかったんだろう」。中学に入学してからも、思い出してはつらくなった。助けられなかった自分を責め続けた。高校進学後も、親友の死を誰かに積極的に話すことはできなかった。
転機は今年8月10日、東松島市あおい地区で開かれる秋のハロウィーンに向けた打ち合わせに出席したことだった。地域で若者の語り部活動を支援している同市出身のフリーカメラマン、鈴木貴之さんに「語り部をやってみないか」と声を掛けられた。添田さんはその場で、自分も語り部になりたいと申し出た。
この日は亡くなった親友の誕生日だった。「『バイバイ』と言って別れた友だちに、次の日『おはよう』と言えるとは限らない。日常は当たり前じゃないということを私も伝えたい」。親友の死を無駄にしたくないと思った。
震災から6年半がたち、親友の家の周辺の風景を思い出せないことが増えた。「自分の気持ちの整理がついた」と思う一方、「自分の中で風化が始まっている」と感じる。被災していない人ならなおさらだと思う。だからこそ、自分の体験を多くの人に知ってほしい。「私と同じ思いをする人を二度と出したくない」。語り部として一歩ずつ歩んでいく姿を、親友に見ていてほしいと思う。
大震災6年半「震災いじめ」語り部に 被害の高3
東日本大震災から11日で6年半。文部科学省は避難した子供約1万2000人に対し、いじめは199件確認、うち13件が震災や原発事故に関連すると断定したが「氷山の一角」という声も上がる。そんな中、理解し合う大切さを訴え、自身が受けた「震災いじめ」の語り部として声を上げる若者も出始めた。
昨年11月、福島から横浜に避難した当時小学生の男子生徒が名前に「菌」を付けて呼ばれ、金銭まで要求されていたことが明らかになった。この問題をきっかけに、避難した人々への差別や無理解の実態がようやく議論されるようになった。
「次はあなたが被災者になるかもしれない。その時を考えるきっかけにしてほしい」
傷付いた避難者の苦悩が続く中、わかり合う大切さを訴え始めた人がいる。仙台西高3年の三浦七海さん(18)は中学時代の「震災いじめ」を、語り部として伝えている。
700人以上の犠牲が出た宮城県名取市沿岸部の閖上(ゆりあげ)地区出身で、震災当時は小学5年生。津波で自宅を流され、市内の内陸部の中学校に入学したが、閖上から来たとわかると、いじめが始まった。「支援物資をもらってずるい」「周りはたくさん死んだのに、なんで生き残った」。バッグやヘルメットに砂利を詰められた。不安で登校できない日もあった。被害がより大きかった閖上だけが、手厚く支援を受けるのをうらやむ声が背景にある、と周囲から聞かされた。
3年生の時、復興支援に取り組む東京の高校生から、仲間の集まりで被災の状況を話すよう頼まれた。「つらい体験をわかってくれる人がいるかもしれない」。声が掛かれば経験を語るようになったが、いじめには触れづらかった。高校進学後、思い切って友人に打ち明けてみた。「大変だったね」と抱き締めてくれた。わかってくれる人がいる。本当のつらさをようやく語れるようになった。
夏休みを利用し、首都圏や四国にまで足をのばし、人々に体験を語っている。最近、英語の勉強にも力を入れるようになった。少しでも多くの人に伝えたいからだ。距離はきっと縮まると信じている。
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ただ、現実は依然として厳しい。
「地元に帰った避難者も大勢いる。なぜ残るのか」。4月、東日本大震災の2年後に開設された新潟市の「避難者交流施設」に匿名の電話がかかった。今村雅弘復興相(当時)が、自主避難者が故郷に帰れないのは「本人の責任」と発言した翌日。「大臣の記者会見を見たが、私も帰ればいいと思う」「避難者は毎日遊んでいる」。年配らしい男性の訴えは、30分近く続いた。
施設は、昨年小学校の同級生から名前に「菌」を付けて呼ばれた男児の母親も利用していた。「触るなよ。放射能付くだろ」とも言われていた男児は担任に訴えたが、5日後、その担任にまで「菌」付けで呼ばれ、不登校になった。「親しみを込めたつもり」。母親は教頭から担任の弁解を聞かされた。男児は今春、別の学校へ転校した。
母親は匿名電話の内容にも驚かなかった。「特別扱い」「賠償金あるんでしょ」。そんな声を掛けられることは珍しくないからだ。「自主避難者に定期的な賠償金の支払いはなく、住宅の無償提供も3月で打ち切られた。多くの人が、それすら知らない」
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3年前、教室の電気を消した講師に「放射能浴びてるから光ると思った」と言われた関西学院大の女子学生は、今春から大学を休学している。
1年の英語の授業で出身地を尋ねられ、「福島」と答えた直後の暴言だった。言われた瞬間は驚きで反論できなかった。「傷付くだろうな」と福島の家族や友にも話せなかった。その後もバイト先などで出身地を聞かれては「こいつの線量測れ」などと返されてきた。相手は軽い冗談のつもりのようだったが、感情を抑える機会が増えるにつれて他人の視線や会話が怖くなった。街も歩けなくなった。
被災地以外に住む人との意識の差は、時の経過とともにむしろ広がっていると感じる。「放射能に対するそれぞれの葛藤は理解されずに『もう大丈夫でしょ』と言われている気がする」。
喪失から再生に向かっている人々のこころに、深い傷が刻まれている。
