村上春樹とラノベのあいだ ~新作『騎士団長殺し』を楽しむ前に 今回はファンタジーなのか?
村上春樹の、4年ぶりとなる長編小説『騎士団長殺し』(新潮社)が2月24日に発売された。発売前から重版がかかり、第1部と第2部を合わせた累計部数が130万部を突破したという。この「春樹フィーバー」ぶりも、おなじみの光景となった。
発売前には具体的なストーリーが公表されないのも、いつも通りだ。しかし今回の作品は題名にある「騎士団長」という言葉が、ストレートにファンタジックな印象を与えるのは間違いないだろう。
そう考えてみると、第1部と第2部に付けられた「顕れるイデア編」と「遷ろうメタファー編」というタイトルも、格調高いというより、ファンタジーもののアニメやゲームのような、奇妙にしゃちほこばった雰囲気も感じさせる。こなれた言い方をすれば「中二病」っぽい。
「いやしくも文学たる村上春樹について、アニメやゲームみたいとは何事か」と怒る人もいるかもしれない。しかし、もともと村上春樹の作品はファンタジックな要素が多い。
たとえば1994年、今回と同じく新潮社から第1・2・3部などの分冊で出版されて大ヒットした『ねじまき鳥クロニクル』。霊的な能力を持った姉妹と関係を持ったり、井戸の底に潜ることで精神世界へ旅立つというストーリーは、語られている内容だけを見ると、まるで『ドラゴンクエスト』などのゲームのようだ。
近年のベストセラーとして記憶に新しい『1Q84』(新潮社、2009-2010)も同様だ。
ふだんはスポーツインストラクターをしている暗殺者の女性が、謎の宗教団体をめぐる事件に巻き込まれるという設定は、荒唐無稽だと言ってもいいはずだ。小説の冒頭も、ある日突然に、現実世界と少し違った異世界に紛れ込んでしまうというSFチックなものだ。
つまり村上春樹は、あまり現実的な物語を書く作家ではない。
というと「現実を描いた作品もあるじゃないか」と思うかもしれない。たしかに、たとえば『ノルウェイの森』(講談社、1987)は学生運動が盛んだった60年代末の大学生活を描いたものだ。
しかし現実の社会を題材にした作品でも、しばしば村上春樹の作品は「現実味がない」と言われる。場合によっては、それは彼の作品の欠点であるかのように言われる。つまり村上春樹の文学は「現実を描けていない」、だから読むに値しない、という論調だ。
ただ、その批判には少し誤解がある。というのも村上春樹というのは、そもそも、「現実を描かない」ところを評価されてデビューした作家だからだ。
たとえば初期作品の傑作として知られる『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社、1985)が谷崎潤一郎賞を受賞した際、審査委員だった丸谷才一は次のように賞賛した。
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明治以来八十年の日本文学の風土と訣別していて新しい。つまり、主人公が作者自身であるかのような錯覚を与えず、ナマの現実に立たず、汚したり不快感を与えるのが小説のカン所であるといった思い込みを廃している。(『読売新聞』1985年10月18日)
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村上春樹の作品は「ナマの現実」を描かない。たとえ現実世界を舞台にした作品であっても、現実を描いてはいない、というわけだ。
丸谷才一は村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』(講談社、1979)が群像新人文学賞を受賞した際にも同様に「自在にそして巧妙にリアリズムから離れた」と高く評価していた。
一方で、村上春樹を読んで「真実の愛を知った」とか「今の日本社会の問題を考えさせられた」という人もいる。
それも間違いではない。童話や寓話がそうであるように、非現実的な物語に、現代的なテーマを感じ取るというのはあり得る。村上自身も、『ねじまき鳥クロニクル』の執筆を振り返って、次のように述べている。
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深く潜って、自分をどこまでも普遍化していけば、場所とか時間を越えて、どこか別の場所に行けるんだという確信を得られた。(『考える人』2010年夏号、新潮社)
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普遍的なテーマ設定があれば、現代的な場所や時間を超越したファンタジー世界であってもいい。この確信が得られたからこそ、以後の村上春樹は、まるでアニメやゲームのようにフィクションらしい設定を強めた作品も書くようになったのだと言ってもいい。
その最新形が『騎士団長殺し』ということになる。ただ、「ナマの現実」を描かない路線が、最終的に「騎士団長」といういかにも西洋ファンタジー的な言葉が登場するような作品にまで行き着いたというのは、なかなか興味深い。
なぜなら近年、若者が読むライトノベルの流行もまた、ゲームのようなファンタジー世界に転生して活躍するというものだからだ。
こうした作品は、若年層に人気の小説投稿サイト「小説家になろう」に投稿されることが多いことから、「なろう系」または「なろう小説」というジャンル名で呼ばれる。
現実世界だと平凡な主人公が、ファンタジー世界では特別な能力者として活躍できるという筋書きは昔からあるものだ。しかし、とりわけ昨今のブームのルーツにあるのはおそらく、1999年に第1作が翻訳されたJ.K.ローリングの『ハリー・ポッター』シリーズだろう。
日本でも大ブームになり、子供たちにも親しまれたこの作品を、アニメやゲームのような日本流ファンタジーに馴染ませていったのが、「なろう系」のライトノベルだと考えられるのだ。
しかし「なろう系」の世界観は、ご都合主義なものとして批判されがちだ。いかにもアニメやゲーム的であるがゆえに、主人公の努力や葛藤を必要としないというのだ。
こうした批判は、要するに「なろう系」の作品が、「現実を描いていない」という意味だ。つまり、村上春樹に寄せられる批判と同じなのである。
言ってしまえば、現実を描いていないという意味で、村上春樹の小説は「なろう系」小説、ライトノベルと同じなのだ。
しかし、「村上春樹はライトノベルと同じ」というのは、批判ではない。前述したように、村上春樹はそもそも現実を描かないからこそ評価された。同様にライトノベルも、現実を描いた作品でないという理由で低く評価されるべきではないはずだ。
現実を描いていないということ自体は、村上春樹と「なろう系」小説の双方にとって欠点ではないのだ。昨今の漫画やアニメ、ゲームなどの人気ぶりを鑑みると、むしろ日本の人気コンテンツの特徴とはそうした部分にあるとすら考えられる。
逆の言い方をすると、村上春樹の小説が現実そのものを描いたものとして読まれ、またそれゆえに評価するという人がいるなら、それは勘違いだということになる。
新刊が発表されると我先にと購入したり、ノーベル賞の発表時期に「今年こそ」と意気込むような春樹ファンの中にも、そうした人はいるに違いない。
こういう熱心なファンは、村上春樹だけを絶対視したり、また安易にお祭り騒ぎへ乗じようという姿勢が批判されることがある。
好きなものを楽しもうというだけなら、目くじらを立てる必要はない。純粋なファンをいたずらに批判してはいけない。
だが、上述したような村上春樹の作品の特徴を知っていると、彼らファンが疎ましがられる理由が推測できるかもしれない。というのも、フィーバーを楽しむ人たちの中には、作中に登場する音楽や料理、場所、ファッションなどに極端なこだわりを見せて、やたらと真似ようとしたりする人もいるのだ。
たしかに、村上春樹の作品に描かれるライフスタイルは特徴的だし、シャレたものだとも言える。だが彼の作品が現実を描いておらず、にもかかわらず(だからこそ)評価されるとしたら、そうしたライフスタイルもまた、作品の本質ではないはずだ。
熱心なファンを自称しながら、そうした部分にばかり注目して騒いでいれば、周囲から眉をひそめられてもしかたない、ということになるだろう。
同じく「現実を描かない」ジャンルに置き換えて言えば、作品が何を描いているかよく理解せずに、アニメやゲーム、あるいはライトノベルなどのことを、俺理論だけで、ところ構わず語る「空気の読めない」オタクのようなものかもしれない。
村上春樹は「現実を描かない」にもかかわらず「文学」という、いかにも現実を描くことに価値がありそうなジャンルの作品として爆発的に売れる。だから、このように誤解したファンも生まれるのだろう。
しかし今回は『騎士団長殺し』というタイトルなど、ますますファンタジーっぽい、非現実的なカラーが強調されている。ならばこそ、今度の春樹フィーバーはそうした表面的な部分を取り沙汰するのではなく、力を込めているであろう普遍的なテーマに注目するファンが増える契機になれば、村上春樹も喜ぶかもしれない。
