2016年ヒット映画に見る「天災的想像力」が向かう先『君の名は。』『シン・ゴジラ』

2016年ヒット映画に見る「天災的想像力」が向かう先(前編) 『君の名は。』『シン・ゴジラ』『この世界の片隅に』から読み解く日本映画界

2016年の日本映画界は、非常に活況に満ちた一年となった。

 2015年に続いて興行成績は好調を維持し続け、結果的に過去最高を記録した。さらに2010年代を代表するかのような3本の映画も登場した。『君の名は。』、『シン・ゴジラ』、そして『この世界の片隅に』だ。先に結論だけ述べておけば、この3本は「ポスト3.11の時代」を象徴する映画だった。

 本論では、全体の情況を確認しながら、この3本を中心として2016年の日本映画を考察していく。

飛躍の可能性がうかがえる日本映画界

 本題に入る前に、映画界全体の動向を押さえておこう。

 映画はしばしば斜陽産業だと見なされるが、それは誤った認識だ。90年代中期に最低迷期を迎えた日本映画界は、21世紀に入って回復した。1981~2000年と2001~2016年の両期間を比較すると、総興行収入は平均1685億円から2039億円に、入場者数は平均1億4291万人から1億6329万人にまで増えた。こうした変化の要因を両時期の差異から導くならば、シネコン(複合型映画館)の浸透や、テレビ局や出版社などメディア異業種の参入、そしてアニメ人気が挙げられる。

 具体的に振り返ると、2010年に総興行収入が2207億円と当時の過去最高を記録した。しかし、翌11年は(東日本大震災の影響もあったが)1812億円と約400億円のマイナスと、過去15年で最低の数字となった。統計学的には、これは「平均への回帰」を示す現象だと考えられる。つまり、21世紀に入って復調したものの15年ほどは大きな変化はなかった。

 しかし、2015年と16年の2年間だけを見れば、産業的には飛躍の可能性がうかがえる。なぜなら、2016年の総興行収入は、2010年を大幅に上回る過去最高の2355億円となったからだ。2015年が歴代3位の2171億円だったことを踏まえると、(消費税増税の影響を含めても)映画館に多くの観客が足を運ぶ活況が2年続いたと言える。今年もこの調子が続けば、映画産業は新たな成長段階に入ったと考えてもいいかもしれない。

 またこの約10年間に生じたひとつの傾向は、日本映画のシェアが外国映画を上回り続けていることだ。これは、ハリウッド映画が席巻した80~90年代とは大きく異なっている。日本以外で自国映画のシェアが高いのは、世界第2位の映画市場である中国(ただし外国映画の公開規制がある)、ひとりあたりの映画館観賞回数が世界トップクラスの韓国、そして、映画が盛んなことで知られるインドだ。ヨーロッパのほとんどの国では、シェアの60~80%近くをハリウッド映画が占めていることと比較すると、これはアジア特有の現象だと言える。

作品に表れる強い作家性

 ここからは、『君の名は。』、『シン・ゴジラ』、『この世界の片隅に』を中心に、2016年の映画情況を読み解いていこう。ただしそこでは、決して作品内容だけを取り上げることはしない。作品内容は、映画においてたしかに重要な構成要素であることに間違いないが、それは映画のひとつの側面でしかない。つまり、作品内容以外を等閑視することとは、映画総体を語ったことにはならない。

 映画は創作者がおり、それを観る観客がいる。さらに彼らや日本映画を取り巻く日本社会があり、そして作品内容がある。

 よって、ここからは(1)創り手・(2)観客・(3)作品内容・(4)日本社会の4点について、それぞれ考えていく(※1)。

 まず創り手について見ていこう。今回取り上げる3作すべてには、監督の強い個性(作家性)が表れている。振り返れば、00年代に日本映画界を席巻したテレビ局製作の映画は、しばしばその作家性の弱さを批判された。つまり、マスプロダクトとしての価値と作家性との乖離が指摘されていた。

 ただ、そのなかでアニメは例外だった。言うまでもなく、それはスタジオジブリの宮崎駿と高畑勲がいたからだ。彼らは、商業性と作家性をしっかりと両立させてきた。むしろ、その作家性こそが興行価値につながってきた。『君の名は。』、『シン・ゴジラ』、『この世界の片隅に』の3作に共通するのも、監督の作家性が興行に結びついているところだ。

 『君の名は。』の新海誠は、2002年公開に低予算の短編『ほしのこえ』を発表したときから、その美しい風景描写と、テーマである若者のコミュニケーションの断絶が高く評価されていた。ただし、新海の弱点は長編映画だった。その後いくつかの長編を発表するが、そこでは構成力の弱さが露呈し続けていた。

 しかし、新海にとってはじめてのメジャー作『君の名は。』は、これまで見せてきた強い作家性を維持しながらも、きわめてバランスの良い構成となっている。この結果に大きく寄与したのは、おそらく東宝の川村元気プロデューサーだ。小説家としても知られる川村は、新海に対し『君の名は。』が「ベスト盤」だと言って鼓舞し、さらに非常にオーソドックスな3幕構成にしたと述べている。プロデューサーが監督の作家性をコントロールしながら、目一杯引き出したのだ。

※1……映画を捉えるこの4つの枠組みは、ウェンディ・グリスウォルドの「文化のダイヤモンド」によるものである。詳しくは、『文化のダイヤモンド──文化社会学入門』(1989年/玉川大学出版部)を。

 『シン・ゴジラ』は、『新世紀エヴァンゲリオン』で知られる庵野秀明が総監督を務め、『進撃の巨人』など特撮に強い樋口真嗣が監督をした作品だ。そこには、『エヴァ』で見せてきた強烈な庵野節が全開となっている。おろおろしながらゴジラに立ち向かう日本政府はまるでシンジで、石原さとみ演じるアメリカの特使はアスカを連想させるように、『エヴァ』の構図をそのまま『ゴジラ』に適用している。『エヴァ』と異なるのは、ゴジラ駆逐のソリューションを、SF的(エヴァンゲリオン)ではなく、現実的(政治)に導き出す点だ。それは戦後日本が抱えてきた、日米安保同盟を軸とする対米追従路線を『ゴジラ』という題材で思考実験した内容だと言える。

 もちろん、あの特撮も大きな魅力として観客には感じられたはずだ。70~80年代、それまで世界でトップクラスであった日本の特撮は、スピルバーグとルーカスを中心とするハリウッドに圧倒されてファンに見放された。しかし、近年はVFXのハードルが下がったことにより、従来の特撮とCGを組み合わせて、ハリウッドほどの予算をかけなくともそれに比肩するだけの映像を創ることができるようになった。『シン・ゴジラ』は、現段階では東アジアの映画におけるひとつの到達点だと言えるだろう。

 『この世界の片隅に』の片渕須直は、2000年に『アリーテ姫』で長編監督デビューし、09年に『マイマイ新子と千年の魔法』で注目された。その特徴は、細部にこだわった非常に丁寧で細かい演出だ。『この世界の片隅に』でも、戦時下の庶民の日常生活をひたすら描いていった。新海や庵野のようなダイナミズムはないが、淡い水彩画のような広島や呉の街のなかで、主人公・すず(声優・のん)が柔らかく動きながら生活している。

 『マイマイ新子~』でもその特長は発揮されているが、片渕の視点は常にミクロなほうに向いている。鳥の視点か虫の視点かで言えば明らかに後者だ。それはSF要素のある『君の名は。』や、政治の世界を執拗に描いた『シン・ゴジラ』とは、明らかなコントラストを成す。

 さて、駆け足で見てきたが、この3人に見られる作家性(個性)とは、多くの実写映画ではなかなか見られない強度を持っている。それは彼らがアニメや特撮をその表現手段としていることと、けっして無関係ではない。3者には、その個性が画(映像)の強さに表れていることが共通している。

“体験”の場としての映画館

 次に、受け手である映画観客に目を向けてみよう。そこでは、2016年にそれ以前と異なる明確な変化が現れた。それが「応援上映」や「発声上映」と呼ばれる映画上映だ。

 振り返ってみれば、2010年代に入ってから映画館にはさまざまな変化が訪れていた。たとえば一昨年の2015年に話題となったのは、4D映画だった。これは座席が動いたり、水しぶきがかかったりするなど、体感型の映画だ。さらに遡れば、2009年末公開の『アバター』によって3D映画が流行った。従来の2Dのスクリーンに投射される映像をただ観るだけでなく、奥行きや物理的な振動などの要素が加えられている。これらは、19世紀後半に誕生したばかりの映画において見られたアトラクション性(見世物性)と通ずるものであることは、渡邉大輔などによってすでに指摘されている(※2)。

 しかし、これらはともにハリウッド映画を中心とする話であり(日本映画でもいくつか3D作品はあったが)、観客の能動性を強く期待するものでもない。3Dや4Dと言っても、それは創り手側が準備したコンテンツを観客が受動的に楽しむことには変わりなかった。

※2……渡邉大輔「映画の“アトラクション化”はどう展開してきたか?──渡邉大輔が映画史から分析」『Real Sound』2015年9月7日、松谷創一郎「アトラクション化する映画館――『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』の大ヒットから考える映画の未来」『Yahoo!ニュース個人』2015年12月23日。

 「応援上映」や「発声上映」は、それらとは異なる。その嚆矢となったのは、16年1月に公開されたアニメ映画『KING OF PRISM by PrettyRhythm』(通称『キンプリ』)だった。3人組の男性アイドルグループを描いたコアなファン層に向けた内容だが、「応援上映」では、劇中の展開に合わせてサイリウムを持った観客が大きな声をかけるなど、まさに「応援」しながら観る。観客は受動的に映画を観るのではなく、参加することに価値が置かれている。

 こうした観客の能動性は、過去にも見られた。2年前に『アナと雪の女王』が大ヒットしたときに「合唱上映」があり、70年代にはイギリスのミュージカル映画『ロッキー・ホラー・ショー』でも上映中に傘をさしたり声をあげたりするような観客の能動性が見られた。しかし『キンプリ』は、コアなファン層にもかかわらず、過去のそれらよりも広がりを見せ、興行収入7億円を超えるスマッシュヒットとなった。

 これによって、2016年は多様な上映形態がいくつか見られた。そのなかで目立ったのが、『シン・ゴジラ』と『君の名は。』だ。

 まず9月15日、全国25の映画館でいっせいに『シン・ゴジラ』の「発声上映」がおこなわれた。特設サイトには、「声だしOK!コスプレOK!サイリウム持ちこみOK!」とあるように、それは『キンプリ』の「応援上映」を参考にしていることがうかがえる。そして『君の名は。』では、12月23日に「大合唱上映会」が開かれた。このイベントでも「応援&発声、そして、歌唱可能!」と謳われた。

 これ以外にも昨年は『HiGH & LOW THE MOVIE』の応援上映や『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年)の「絶叫上映」があったが、これらの作品に共通するのは、音楽や音響効果が重要な構成要素となっている点だ。

 こうした上映方式が今後どれほど広がるかは未知数だが、確実にひとつだけ言えることは、もはや映画観客は、必ずしも席に座って静かに映画を観る存在だとは限らないということだ。映画館とは、遊園地のアトラクションのように4D映画を楽しんだり、あるいはカラオケのように騒いだりする場にもなっている。つまり、観客の受容形態が多様化しつつある。具体的に言えば、観客は自らの映画館における“体験”により価値を置く傾向が確認できる。

 目を転ずれば、こうした現象は映画以外のエンタテインメントでも生じている。

 たとえば、2009年に開場したプロ野球・広島カープの本拠地マツダスタジアムには、さまざまな座席が準備されている。食事をしながら観戦するバーベキューシートや、寝そべってみる「寝ソベリア」などがそうだ。さらに、どの座席のひとでも球場を一周できるコンコースがあり、退屈した子供が遊べるようにゴリラの人形などの設備もある。昨年は期間限定でオバケ屋敷も存在した。

 音楽では、CD売上が落ち込む一方で、この15年ほどフェスやライブのマーケットが大きく成長している。2006年に1527億円だった音楽コンサート市場は、2015年には3405億円にまで伸長している(音楽業界における受容の変化は、先日出版された柴那典『ヒットの崩壊』を参照)。

 これらの隣接領域からも、観客の変化が見て取れる。映画にしろ、野球にしろ、音楽にしろ、観客はコンテンツを観賞することだけが目的ではなく、映画館や野球場やフェス会場などの「場」に“体験”を求めて足を運ぶ傾向が強まっている。いつ、誰と、どこへ(場)、なにを(コンテンツ)、どのように(発声)して体験するか──ということである。

 最近では「“モノ”消費から“コト”消費に」と語られるが、その萌芽は1999年に、日産自動車「セレナ」のキャッチコピー「モノより思い出」のときすでに見られた。21世紀のエンタテインメント業界は、確実に体験志向を強め続けてきた。

 映画は作品内容(コンテンツ)だけで総体を語りうることができないことは歴史的にも自明だったが、21世紀以降は受容体験(受け手)により重心が移ってきているのである。

興行との乖離が強まる映画評論

 こうした傾向において、より存在感を薄めつつあるのは評論家/批評家の存在だ。評論家も受け手の一部だが、長らく映画観客のオピニオン・リーダー(インフルエンサー)存在としての立場を示してきた。90年代までは、テレビの映画枠で評論家の淀川長治や水野晴郎が映画を紹介することなどにより、その存在は広く知られてきた。しかし、彼らが次々とこの世を去り、徐々に映画評論は目立たなくなっていった。

 しかし、映画観客が他者の評価を不要としているわけでもない。ネットの浸透によって、観客たちは一般の映画ファンの意見を参考とするようになったからだ。現在、映画観客の多くはYahoo!映画やFilmarksなど映画レビューサイトの意見を参考にしている。あるいは一般の映画ファンが運営する人気の映画評論ブログでは、年末年始に読者投票によってベストテンを決めている。これらは映画ファンたちが、みずからの志向性を介して共同性を確認する年次行事と捉えられる。その一方で、映画雑誌はどこも青色吐息で、金曜日夕刊の新作映画評はほとんど見向きもされない。受け手の代表者として映画評論家の役割は、減衰する一方だ。

 そのなかで、映画評論家がいまだにある程度の権威を見せながら続いているのは、老舗の映画雑誌『キネマ旬報』における「キネマ旬報ベストテン」だろう。これは評論家や記者など約60人の投票によって、年間ベストテンが決められる。投票者の内容がすべて開示されるので透明性も高い。既に発表された2016年度では、1位に『この世界の片隅に』、2位に『シン・ゴジラ』が入った(『君の名は。』は11位以下)。

 しかし、このキネ旬ベストテンは年々偏りを見せている。より具体的に言えば、大手3社の配給する作品(それは興行収入が高いことも意味する)がベストテンに入りにくくなっている。それは、上位10作の配給会社の割合を見ていってもわかる。

 東宝が牽引することで日本映画の興行成績が伸び続けた21世紀に入ってから、逆にキネ旬ベストテンでは大手作品が上位に入りにくくなっている(グラフ1参照)。これは、興行成績と映画評論家の評価に強い乖離が生じていることを意味している。2016年においては、興行的にも大ヒットした『この世界の片隅に』と『シン・ゴジラ』が1位と2位となったが、こうしたことは21世紀以降では多くない。

 もちろん批評は、そもそも一般客(マス)の動向を気にするものではない。『キネマ旬報』誌は、大手の作品から公開規模の小さい独立系の作品まで広く扱うが、概ね作品の芸術性を評価する傾向にある。しかしそれを踏まえても、21世紀以降は極端な差異が生じている。

 この要因はいくつか考えられる。単なる判官贔屓、映画の斜陽時代に青春期を送ったことによる商業性に対する違和感、高齢化などだ。なんにせよ、この強い乖離から逆照されるのは、映画評論家の存在が90年代までと比べて機能しにくい情況になっていることだ。印象批評や分析を排して解説に注力する批評家が目立つのも、批評をめぐる映画情況のなかで生じている現象だと捉えられる。

 次回は、3本を中心に映画の作品内容と、映画を取り巻く日本社会との関係を見ていく。

2016年ヒット映画に見る「天災的想像力」が向かう先(後編)

2016年の日本映画界は、非常に活況に満ちた一年となった。

 2015年に続いて興行成績は好調を維持し続け、結果的に過去最高を記録した。さらに2010年代を代表するかのような3本の映画も登場した。『君の名は。』、『シン・ゴジラ』、そして『この世界の片隅に』だ。先に結論だけ述べておけば、この3本は「ポスト3.11の時代」を象徴する映画だった。

 前編では、全体の情況を確認し、映画観客が能動性を高める現象や、評論家たちが影響力を失っていることなどを読み解いてきた。今回は3本を中心に映画の作品内容と、映画を取り巻く日本社会との関係を見ていく。

日本映画の中心となったアニメ

 後編では、まず作品内容について見ていこう。ここまで触れてきたように、2016年の注目作3本──『君の名は。』、『シン・ゴジラ』、『この世界の片隅に』は、すべてアニメやアニメ出身者による映画だった。これはけっして恣意的な選択ではなく、21世紀以降の日本映画の情況から考えても大きな成果と呼べるものだ。

 振り返れば、そもそも日本映画復活の要因のひとつはアニメだった。90年代まで低迷していた映画興行は、アニメによってなんとか維持され、それが00年代以降の復活に繋がった。このアニメ映画には、大きく分けて2つのタイプがある。毎年定期的に公開されるテレビアニメの劇場版と、単発アニメだ。

 テレビアニメの劇場版では、先駆けの「東映まんがまつり」(1969~90年)や『ドラえもん』(1980年~)からずいぶん遅れながらも、段階的に整備されていった。具体的には『クレヨンしんちゃん』(1993年~)、『名探偵コナン』(1997年~)、『ポケットモンスター』(1998年~)、『ONE PIECE』(2000年~)、『NARUTO』(2004~2015年)、『プリキュア』(2005年~)、『妖怪ウォッチ』(2014年~)などがそうだ。とくに東宝は、正月・春・ゴールデンウィーク・夏前後半・冬と、子供たちの学校が長期の休みに入る時期に合わせて人気テレビアニメの劇場版を揃えていった。

単発アニメでは、89年の『魔女の宅急便』からスタジオジブリ作品が大ヒットを見せるようになる。その人気がピークに達したのは、97年の『もののけ姫』(興行収入193億円)、01年の『千と千尋の神隠し』(同308億円)、04年の『ハウルの動く城』(同196億円)あたりだろう。しかしスタジオジブリは、2014年の『思い出のマーニー』を最後に、大幅にスタッフを整理し、実質的に制作(≠製作)から撤退した。

 一方で10年代に入ってから、ジブリ以外の単発ヒットも多く生まれるようになった。具体的には、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』(2007年~)や、『おおかみこどもの雨と雪』(2012年)や『バケモノの子』(2015年)など細田守監督作品、『けいおん!』(2011年)、『魔法少女まどか☆マギカ』(2012~13年)、『ラブライブ!』(2015年)、『心が叫びたがってるんだ。』(2015年)、『ガールズ&パンツァー』(2015年)、『聲の形』(2016年)などがそうだ。もちろん『君の名は。』や『この世界の片隅に』もこの単発ヒット作として区分される。

こうした情況から見えてくるのは、10年代とは、ポストジブリ時代にもかかわらず、アニメが完全に日本映画の中心になったことだ。

 それは興行成績を見ても一目瞭然だ。右のグラフは、ヒットした日本映画におけるアニメ映画の興行収入だ(日本映画の業界団体は、興行収入10億円以上の作品しか公式発表しない)。

 年によっても異なるが、この16年間で(興行収入10億円以上に限れば)38.4%をアニメが占めている。これは世界的にも異例の割合だ。2016年度(※3)は、いまだに上映中の『君の名は。』が興行収入240.2億円(2月5日現在)となっており、アニメの割合は4.7%となった(この割合は『君の名は。』の興行成績しだいでさらに高くなる)。

 かように、いまや日本映画界にとってアニメは、ほとんど屋台骨と言っても過言ではない情況にある。

※3……映画の業界団体・日本映画製作者連盟が発表する日本映画産業統計は、年度別のランキングにおいて、各年11月末以降の公開作は年をまたぐために翌年度扱いとされる。よって、いまだに公開が続いている『君の名は。』や『この世界の片隅に』の興行収入は2017年分も2016年度分として換算される。それゆえ、このグラフには厳密さが欠けるが、目安にはなる。なお、1月1日から12月31日までの各作品の厳密な興行成績は発表されない。

映像の価値が相対化された映画館

 アニメが観客に訴求する要因は複数ある。それはテレビアニメの劇場版と単発アニメでも理由は異なる。

 テレビアニメの劇場版の場合、それは学校に通う子供たちの年間スケジュールと密接に関係しており、同時に子供たちを引率する親の存在も興行成績に寄与している。つまり、子供向けとは言えファミリー映画だ。そしてそれらのほとんどは、マンガやゲームの原作が人気となり、テレビアニメ化を経て劇場版が公開されるという展開を経ている。

 一方単発アニメは、監督の作家性が訴求するケースが多い。スタジオジブリの監督たちをはじめ、最近では細田守や長井龍雪などがそうだ。もちろん、新海誠や片渕須直もこちらに括られる。これらはテレビアニメの劇場版と異なり、オタク文化の浸透と拡大により、高齢者層を除いた全世代にリーチする。アニメであればなんでもいいわけではないが、グッズ販売なども含めて実写よりも注目度が高くなる傾向がある。

 さらにそこで押さえなければならないのは、アニメは映像表現として、映画館でより価値が見出されつつあることだ。事実、『君の名は。』や『この世界の片隅に』の映像は、極めて高い強度を持つ。さらに、その映像の美しさもさることながら、音楽とともに観客を包み込んで固有の体験に導く。この両作品では、それぞれRADWIMPS、コトリンゴと、音楽が作品の重要な構成要素となっている。一般客の声に耳を傾ければ、そこから聞こえてくるのは、物語展開や作品テーマ以上に、映像の美しさや音楽への感嘆である。

 素晴らしい映像と音楽を大きなスクリーンで体験する──こうした映画館の価値が近年より前景化しているのは、他の映像(動画)メディアが拡大・浸透してきたからだ。あらためて説明するまでもないが、テレビは地上デジタル放送とともに高画質化・大画面化し、そこでユーザーはDVDやブルーレイだけでなく、NetflixやAmazonビデオなどの配信サービスを楽しむようになった。YouTubeやニコニコ動画がそれ以前から人気なのは、周知のとおりだ。

 振り返れば、映画館は常に他の映像メディアに翻弄されてきた歴史を持つ。テレビの普及によって60年代前半に急激に観客を失ったのをはじめ、80年代以降はビデオの浸透やBSテレビなど、他メディアとの互恵関係を築きながらも、相対的に存在感を落とし続けていった。そして最低迷期が90年代中期に訪れた。

 ただ、そうしたなかでも映画館にはひとつだけ明確なアドバンテージがあった。それは解像度(画質)だ。すなわち、フィルムとテレビの映像には、その解像度において比較にならないほどの差があった。こうした状況はレーザーディスクやDVDなどが普及しても、テレビ受像機に大きな変化が見られなかった00年代中期までは変わらなかった。しかし、いまやNetflixの4K映像を自宅のテレビで観られる時代だ。映画館の優位性は、映像の解像度という点では完全に失われた。

 そうなると、当然のことながら「映画館に足を運び、お金を払って映画を観る」という行為そのものの価値がより問われてくる。前編で触れた、“体験”価値が相対的に浮揚する要因のひとつはこれだ。映画館が3Dや4Dの設備を完備したのも、「他者と共在して静かに映像を観る場」を「みんなで大きな声をあげて応援できる場」として読み変えたのも、映画館における映像そのもの(コンテンツ)の価値が相対化されたからだ。

 こうした情況下において、『君の名は。』や『この世界の片隅に』、『シン・ゴジラ』、あるいはハリウッドのアクション大作などが強さを発揮しているのは、それらの映像と音楽が映画館という空間(メディア)でその魅力を最大化するからだ。観賞者の身体と感覚を、大画面の映像と大きな音楽で包み込んで非日常的な体験をすることこそが、必要とされる傾向にある。

 裏を返せば、これは映画館とテレビで体験的に差異が生じないタイプの映像作品は不利になることを意味している。具体的には、映像的な工夫がなく、会話を中心に構成されたような日本の実写映画は、その最たるものだ(テレビドラマの映画化がヒットしなくなりつつあるのは、そのひとつの顕れかもしれない)。アニメはこうしたなかで相対的に価値が高まっている。

「社会反映論」と「社会投映論」

 さて、最後のポイントに入る。映画を取り巻く現代日本社会についてだ。

 社会と映画の関係を論じるとき、たいていの場合は、その作品内容を社会の反映、あるいは創作者が考える社会の反映だと捉えるケースが目立つ(※4)。これらは「社会反映論」と呼ばれる。具体的には、「映画は社会を映す鏡である」といったタイプの言説がそうだ。

 しかしこの社会反映論は作品によって程度が異なる。これは例を挙げて考えれば簡単だ。たとえば一昨年、ディズニーの実写映画『シンデレラ』が公開された。実写と言っても、CGをふんだんに使った映像だった。ただ、ストーリーはよく知られる昔話と大筋で同じだった。あるいは、3年前に公開された高畑勲監督のアニメ『かぐや姫の物語』について考えてみてもいいだろう。その物語は、多くのひとが教科書で読んだ『竹取物語』と大差ない。

 これらの作品の物語は、現代社会の反映だとは到底言えない。それらは、誰もがよく知る単なる昔話だからだ。『アナと雪の女王』のように、昔話を翻案した様子もほとんどない。社会反映性があるとするならば、現代社会を生きる創作者によって生み出されたこと、そして、現代だからこそ可能な映像技術(たとえば『シンデレラ』のCG)がふんだんに盛り込まれている点だろう。

 これらからわかるように、映画内容(テクスト)の「社会反映性」とは、作品によってかなりその程度が異なる。ざっくり言えば、社会を強く反映する作品もあれば、そうでない作品もあるということでしかない。

 しかしその一方で、受け手が作品を解釈することを「映画は社会を映す鏡である」と捉えてしまうことも往々にして生じている。たとえば『シンデレラ』や『かぐや姫の物語』に、現代女性の生きづらさを読み取る観賞者がいるように。しかし、それは映画内容が「社会を映す鏡」なのではなく、観賞者が「映画に社会を映している」──つまり「社会投映論」だ。

 この「社会投映論」とは、概して読み手の偶有的な読解であることが多い。前述した例では、昔話に21世紀の現代を投映して論じていたように。それは時代性だけなく、読み手の立場(性、民族、国籍、思想)などによっても異なる。「偶有的」というのはこの点を意味する。

 しかしながら、それは偶有的だからこそそこに読み手独自の期待や願望が表れる。ほとんどのひとは、理論的解釈などせず、個人体験として映画を観るからだ。加えて、この期待や願望とは、ひとびと(観賞者)の現実世界に対する潜在的(無意識的)な渇望の投映だとも捉えられる。

 ここまでをまとめると、「社会反映論」は映画内容(テクスト)が社会を反映することなのに対し、「社会投映論」とは受け手が映画に期待や願望を投映することを指す。つまり、主語が異なっている。そして、ここで重要となってくるのは、前者よりも後者である。

※4……長谷正人「占領下の時代劇としての『羅生門』──『映像の社会学』の可能性をめぐって」長谷正人・中村秀之編『映画の政治学』青弓社(2003年)所収。

「崩壊する日常」を処理する天災的感性

 では、『君の名は。』、『シン・ゴジラ』、『この世界の片隅に』の3作には、社会投影性はいかに生じていたのか、あるいは生じやすかったのか。

 それは、やはり東日本大震災・3.11と、その反動としての期待だ。簡明に述べてしまえば「天災的想像力」だ。そうした反応を引き出したのは、この3作に共通する表現が「崩壊する日常」だったことと関係している。3作はけっして東日本大震災を直接描いたわけではないが、観賞者は3.11の記憶をリソースに映画をディコードする傾向が見られた。

 もちろん、作品で描かれる「崩壊する日常」の原因はそれぞれ異なる。『君の名は。』は天変地異、『シン・ゴジラ』は怪獣、『この世界の片隅に』は実際にあった過去の戦争だ。

 このなかでもっとも3.11と似た原因を描いているのは、『君の名は。』だ。とは言え、その天変地異は震災や津波ではなく、人類の歴史でも稀にしか生じないたぐいのものだ。つまり、震災ではないが、それと同等の被害を生じさせる天変地異を描いている。

 『シン・ゴジラ』は、現実世界で生じない原因がゆえに、天変地異にも他国の脅威にも抽象化されて受け止められがちだ。ただし、かなり細かく描かれるゴジラ登場以降の官邸の対応は、3.11直後の日本政府のそれを想像させ、放射能の脅威も福島の原発のことを連想させる。実際、あの官邸の描写は、東日本大震災時に官房長官だった枝野幸男などへの取材が反映されたと見られる。

 対して『この世界の片隅に』は、太平洋戦争を描いた内容だ。そこで反映されている社会は、過去の日本であって現代ではない。しかし、ひとりの女性の戦下における日常描写を徹底することで、戦争の要因は終盤まで感じられない。さらに時間経過を示す年月日には「昭和」が消されて、単に「20年8月15日」と言ったように表記される。そこからは、原作者と制作側による時代性を薄める意図が捉えられる。

 ここで注視しなければならないのは、国防の思考実験として捉えられる『シン・ゴジラ』や太平洋戦争を描いた『この世界の片隅に』も、「崩壊する日常」という共通点によって天災のリソースで読み取られがちだということだ。

 『シン・ゴジラ』はまだ天災的要素が強いが、『この世界の片隅に』の場合は主人公が叫ぶクライマックスの一点を除き、戦争が天災かのように感受される向きが見られる。それは、戦争を引き起こした政治的背景がほとんど描かれていないことに起因する。

 同時に、この作品が小規模公開から口コミで拡大して大ヒットとなったもっとも大きな理由も、おそらくこの点にある。従来の戦争映画では概ね描かれていた悲惨さや政治性が、前面に出されていなかったからだ。結果、戦争によって「崩壊する日常」は、(その時代を体験した一部の高齢者を除けば)天災の記憶によって読解されがちだった。

 戦争を天災として読解(感受)することは、当然のことながら大いなる倫理的な問題を孕んでいる。戦争の被害者の面を強調することで、加害者としての立場の等閑視(あるいは免罪)に繋がりかねないからだ。ただし、ここではその倫理性の是非は問わない。重要なのは、(『君の名は。』は当然だとしても)為政者(大きな世界)を描いた『シン・ゴジラ』にしろ、庶民(小さな世界)を描いた『この世界の片隅に』にしろ、それらが受け手に天災的な感性で処理されがちだったことだ。

 加えてこの3作において「崩壊する日常」のまさにその瞬間は、とても美しく描写される。いくつにも分かれて墜落する彗星、暗闇のなかで炎に囲まれるゴジラ、そして戦闘機から落とされる爆弾──各監督の作家性とアニメ(的な)表現の豊かさは、破滅のシーンにおいて最大値に達する。

 さらにこの3作は、この非常事態の後も描いた。そこには、観賞者の強い期待が向けられる。具体的には、「崩壊する日常」の克服によるカタルシスや、そこからの回復による安心が得られるかどうかだ。それを満たしたからこそ3作はヒットした。

原因や責任主体を問いにくい「天災的感性」

 この「天災的想像力」が、もちろん偶有的であるのは間違いない。天災による大きな被害に見舞われない国や地域もあるからだ。

 たとえばそれは、中国や韓国でも公開されて大ヒットしている『君の名は。』の反応を見ればわかる。たとえば韓国では、みつはの行動によって対応を変えた役人(大人たち)に、セウォル号事故の際に乗員たちに欠如していた側面を見出す。これらの反応は、当然のことながら韓国特有のものだ。韓国社会を生きる観客の期待が、天災ではなく人災の部分に投映されている。あるいはテロが頻発するヨーロッパにおいては、それは「あした愛するひとの命が突然奪われるかもしれない」といった想像力によって処理されるかもしれない。

 もちろん、こうした社会投映性に異論を持つ者もいるだろう。当然個々で読解は異なるからだ。『シン・ゴジラ』や『この世界の片隅に』を戦争に対しての想像力として捉えたひともいるように。ただし重要なのは、多くのひとはたとえそれを「戦争」と認識していても、良し悪しはともかくそれを「天災的」に感受したことだ。

 日本における「天災的想像力」は、いまに始まったことではない。多くの戦争にかんする作品(とくに原爆)において、政治的メッセージが強くないがゆえに、それが「天災」のように捉えられることは過去にも見られた。

 このレトリックの特徴は、原因や責任主体を問いにくい点にある。倫理的な問題もはらむその姿勢は、天災が頻発する国土にわれわれが住むことだけでなく、かの戦争に対し日本政府が明確な態度を避け続けてきたことに基因する。

 つまり、責任を強く認めることもなく、あるいは明確に否定するわけでもなく、70年以上前の出来事をめぐるさまざまなイデオロギーがいまだに乱立するなかにおいて、身近な「崩壊する日常」である天災の想像力によって処理しようとする──2016年を代表する日本映画の特徴を「ポスト3.11の時代」としたのは、この点からなる。

不透明となった2017年以後の映画

 ここまで、2016年の日本映画情況を4つの点から描出してきた。①創り手では強い作家性のアニメ監督が台頭し、②受け手では、能動的な観客の姿が確認できた。③作品内容では映像美豊かなアニメが中心となり、そして④「天災的想像力」の作動する日本社会を描き出した。

 本稿ではこうした情況の良し悪しを問うことは避けるが、最後に予想と言うほどではないが、2017年以降の傾向について触れていこう。

 周知の通り、アメリカでトランプ大統領が誕生したことによって、国際情勢は大きな変化を見せる可能性が高い。ただし、就任から間もない現在、先行きはまったく不透明のままだが。

 もちろん日本も蚊帳の外にいるわけではない。トランプ大統領の保護主義的な政策は、これまで対米追従路線を取ってきた日本にとっては、大きな変化を余儀なくさせる可能性がある。アメリカとの同盟を優先してこのまま孤立路線に突入するか、それとも袂を分かって独自路線を模索するかはまだわからない(おそらく日本政府も先行きが見えていない)。

 ただし、映画の創り手も観客も作品内容も、こうした大きな政治的な変化に大きく左右されることは間違いない。70年以上も続いてきた体制が変われば、当然映画にも大きな変化が生じるだろう。思考停止リスクをはらむ「天災的想像力」だけでは、処理できない局面に立たされる可能性があるからだ。

 そのようにして訪れるかもしれない未来が、日本映画にとって、あるいは日本社会にとって、良いものになるか悪いものになるかはいまの段階ではまったくわからない。

 そしてまた、これは国際政治だけで生じているわけではない。メルトダウンを起こした福島の原発は、6年経ったいまも遅々として処理が進まない状態にある。これからウン十年も続くそれは、(どう考えても人災だが)「天災で生じた、しょうがない不運」としては処理できない情況となる。

 「天災的想像力」は、ある種の魅惑を秘めている。それは、戦争や人災などどんなものを放り込んでも手頃に処理してくれるマジックボックスとしての魅惑だ。これから問われるのは、この「天災的想像力」に果たして今後どれほどの耐用年数があるのか、ということだ。

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