辞任断固拒否の舛添氏が「陥落」した本当の理由、舛添辞任劇の真相とは?

辞任断固拒否の舛添氏が「陥落」した本当の理由

「政治とカネ」をめぐる数々のスキャンダルにまみれながら、なかなか辞意を表明せず、粘りに粘っていた舛添要一氏が、6月21日付で遂に辞職した。辞任の意思を決めてからの舛添氏は、辞職会見を開くこともなく、報道陣への問いかけにも終始、無言を貫いた。どうして会見で「第三者の厳しい目」と繰り返し、辞任を否定していた舛添氏が一転して辞任に傾いたのか。舛添辞任劇の真相とは?

「舛添問題を早く片付けてほしい」安倍総理を震え上がらせた世論調査結果

「なぜ、舛添さんは謝罪をせず、黙ったままで都庁を去るのか。それは、自分が悪いとまったく思っていないからです。今回の一連の騒動では、舛添さんの公私混同ぶりが散々、批判されましたが、確かに政治資金規正法は政治資金の使い方が公私混同であったとしても違法にはならず、金の支出について記録が正しければ合法になるんです。舛添さんは理屈の人なので、『違法ではないのだから辞める必要はない』と考え、頑なになっていました。ところが、一転して辞任することに決めたのは“情”の部分が大きいのです」

 こう語るのは、舛添氏をめぐる騒動について、問題の核心をレポートしてきたジャーナリストの鈴木哲夫氏である。

 まず、舛添氏が辞任に至るまでの過程について鈴木氏の解説でおさらいしておこう。

「もともと豪華過ぎる海外視察旅行が問題とされていた舛添さんですが、今回の騒動の直接の発端は、5月11日発売の『週刊文春』で、家族旅行で使った千葉県のホテルの宿泊代を政治資金として計上していた問題が報じられたことです。報道は過熱し、都知事辞任の可能性も話題になりましたが、一旦は、舛添さんと自民党東京都議団の間で留任する方向で話がまとまっていました」

 ではなぜ、それが一転して辞任ということになってしまったのだろうか? 自民党が舛添擁護から大きく舵を切ったのには、キッカケがあった。

「報道が過熱するなか、都議会自民党は一貫して舛添さんを擁護し続けていたのですが、じつはそれを許さない数字が世論調査で出てしまったようなんです。6月4~5日にかけて自民党が参院選に向けた定点観測の世論調査を実施しています。結果は、普通は数日後に出ているはずなのですが、取材をしても恐ろしいくらいにその数字が表に出てこないんです」

 なぜ、世論調査の結果は出てこないのだろうか。それは、自民党にとって表にできないほど厳しい数字だったということだろう。自民党による舛添下ろしは、ここから始まったのだ。

「数字を把握しているのは、官邸と自民党本部の一部だけでしょう。内閣支持率などかなり厳しいものだったと推測されます。その大きな原因とみなされたのが舛添問題でした」

 舛添氏は、2014年に東京都知事選挙に無所属で立候補したが、その際、自民党は推薦という形で舛添氏を応援している。つまり舛添都知事を誕生させた責任の一端は自民党にもあるとみなされ、舛添氏のスキャンダルに引きずられる格好で自民党の支持率が急降下していたのだ。

「しかも自民党への批判は東京だけにとどまらず、全国に波及していたのです。連日のメディアの攻勢もあって、官邸はピリピリし始め、『このまま舛添を放っておくと、参院選が厳しい』という雰囲気が支配的となってきた。安倍首相と谷垣幹事長が、東京選出の国会議員で安倍さんの側近である下村博文さんに『舛添問題を早く片付けてほしい』と伝えたそうです」

 ところが、当事者である舛添氏は、6月10日の定例記者会見で「(辞職したら)死んでも死にきれない。何としても仕事をしたい」と発言し、知事職にとどまる意志を表明していた。

「この日は私も都庁で取材しましたが、舛添さんは全然元気で『これは辞めないな』という感触を得ました。この会見が行われたのは金曜日でしたが、土日の間に下村さんが『野党が提出した不信任案でも、世間が舛添に『NO』と言っている以上、われわれは乗らざるを得ない』と、不信任案に賛成する可能性を示唆しました」

 下村氏は、次の自民党都連会長と言われる東京自民党の実力者だ。しかも、下村氏のバックには、安倍首相がいるわけだから、その発言は重い。

「もうかばいきれない」舛添氏の“味方”が引導を渡した

 そして翌週の月曜日の13日、東京都議会の総務委員会で舛添問題の集中審議が開催された。

 この日、舛添氏は、共産党が14日に提出する方針の知事不信任案について「可決されると(8~9月の)リオデジャネイロ五輪・パラリンピックの最中に選挙を行わなければならない。(終わるまで)猶予をいただきたい」と発言している。官邸の「舛添切り」の意向は、舛添氏には伝わらなかったのだろうか?

「13日の集中審議の段階で、舛添さん自身は辞めないでも済むと思っていたようです。というのも、舛添さんは、その前に『東京自民党都議団のドン』と呼ばれ、都政に大きな影響力のある東京都議の内田茂さんから、『まだ辞めるのは早いです。しばらく様子を見ましょう』と言われていたんです。内田さんも官邸が『舛添を切れ』と言っているのは、当然知っていますから、頭の中でも『切らざるを得ないなあ』とは分かっていたはずですが、なかなか方向転換ができないでいたわけです」

 舛添氏があっさり自分の非を認めていたら、もっと早い段階で辞任ということになっていただろうが、舛添氏は徹底抗戦の構えを崩していなかった。

「舛添さんの政治資金の使い方は、違法だと断定できるものではありません。理屈で言えば、舛添さんは辞めなくてもいいかもしれない。それに加えて、意地もあります。舛添さんが政治の世界に入ったのは、1999年東京都知事選挙が最初で、この時は石原慎太郎氏に惨敗しました。そして、2001年に自民党候補として参院選に当選し、国会議員となったものの、2010年に自民党を離党し、新党改革を旗揚げし、しかし、それもうまくゆかず、今度は都知事になった。そういう流れの中で、舛添さんにとっての都知事の職というのは、自民党中央に対するリベンジであり、東京オリンピックまではこの地位を絶対明け渡さない、という強い意思があったわけです」

 だが、世論は舛添バッシングで盛り上がる一方。自民党は、「このままでは参院選で惨敗する」と追い詰められていった。その空気を舛添氏の後ろ盾だった内田氏も感じ取り、「舛添さんをかばいきれない」と観念したのだ。

「ただし、追い詰められた舛添さんは、ますます態度を硬化させ、『不信任決議案が提出されたら、都議会を解散する』と周辺には語っていました」

 自民党や公明党を含む7つの会派は、15日に開かれる本会議に共同で不信任決議案を提出し、採決することを決定。舛添氏と都議会の全面対決も浮上していた14日、異変が起きた。

「まず、舛添さんは議会運営委員会に出向き、10分ほど話をして、リオ・オリンピックに出席して、次期開催都市として閉会式で五輪旗を受け取れるよう要請しているのですが、その中で『子どもを守るためには、すぐにでも辞めたい』と述べて嗚咽し、ハンカチで涙を拭ったそうです。話によれば、舛添さんの子どもに取材のトラブルがあり、そのことで奥さんと口論になったようです。それから、舛添さんは知事室に戻り、『伝わらないんだよな』と漏らしてがっくりと肩を落としたそうです。議会解散も辞さないと言って強気一辺倒だった舛添さんが、ここで弱気になってしまったんですね。そして、その日の夜から15日の朝にかけて、内田さんと話をしたそうです」

 内田氏とのこのやり取りが決定打となり、舛添氏は辞任を決めたのだという。一体、どんな内容だったのか?

「私が関係者から聞いているのは、内田さんは『これまで舛添さんを守ってきたのは、俺だけだったよな。リオ・オリンピックまで頑張ってみようと言ってきたよな。でも、もうかばいきれなくなってきた。俺に不信任案を出させるのか。今度は舛添さんが俺に返す番じゃないのか』というような話をしたそうです。そして、この話を聞いた舛添さんは、声を詰まらせ、『内田さんともっと早く話をしていればよかったです』と言ったそうです」

 そうして、6月15日午前、舛添氏は辞職願を都議会の川井重勇議長に提出した。

 一部報道によると、安倍首相が舛添氏に電話をして直接、引導を渡したという情報もあるが、舛添氏はこの報道を否定している。

「舛添さんは内田さんとの人間関係の中で辞任という結論を出したのです。そもそも、舛添さんは第1次安倍政権時代に自民党議員でありながら、安倍政権を批判していましたから、この2人の関係は最悪です。安倍さんが説得して、舛添さんが納得するはずがありません」

 舛添氏は東大法学部出身で学者を経て政治家に転身したエリートだ。一連の騒動で世間からの批判にさらされ続けた状況は耐えられないものがあっただろう。本人の主張では、政治資金の問題は合法であり、その“理屈”で歯を食いしばってきたが、最後の最後で辞任を決意したのは“情”だった。今も昔も政治の世界を突き動かしているのは、最後はこの論理のようだ。


舛添辞任劇の真相とは?think名探偵コナンの決め台詞「真実はいつもひとつ」!yell

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