中国が西側の制度や価値観に寄り添うと考えるのは「幻想」「傲慢」

中国が西側の制度や価値観に寄り添うと考えるのは「幻想」

対外強硬姿勢を貫く王毅外交部長に根強いナショナリズムを見た

“知日派”外交官・王毅外交部長(元駐日大使、以下敬称略)の“快進撃”が止まらない。外国の政府首脳や記者に対して強気で発言し、中国の国益や国家イメージを頑なに守ろうとする姿勢・言動は、党・政府関係者、軍人、知識人の間でも比較的高い評価を生んでいるように見える(2016年3月1日公開、連載第71回「王毅の訪米に滲んだ米国、北朝鮮、台湾をめぐる戦略的意図と不確定要素」参照)。

 普段は外交にあまり関心のない一般大衆が、王毅の対外強硬姿勢に集団的喝采を贈っているように映る現状は、中国の対外関係においてナショナリズムという産物が依然として重大な作用を保持している現実を彷彿させる。

 そんな王毅が、またしても外国の地で一発かました。6月2日、カナダを訪問中のことだ。カウンターパートであるステファン・ディオン外相と共同記者会見に臨んだ際、カナダ人女性記者が同外相に中国の人権問題に関する批判的な質問をした。中国外交部長に向けた質問ではなかったが、王毅は「この問題は中国に関わる。私はコメントしなければならない」として次のように主張した。

「あなたの問題提起は中国への偏見、そしてどこから来たのか分からない傲慢さで満ちている。私はそれを受け入れることがまったくできない」

「あなたは中国を知っているか?」

「あなたは中国に行ったことがあるか?」

「あなたはとても貧しい状態にあった中国が6億人を貧困から脱出させたことを知っているか?」

「あなたは中国がすでに1人あたりGDPが8000米ドルに達した世界第二の経済体になったことを知っているか?」

「仮に我々がしっかりと人権を保護してこなかったとしたら、中国がこれだけ大きな発展を遂げられただろうか?」

「あなたは中国が人権保護を憲法に書き入れたことを知っているか?」

「私はあなたに言いたい。中国の人権状況を最も理解しているのはあなたではない。中国人自身だ。あなたに発言権はない。中国にこそ発言権がある。したがって、今後このような責任感のない質問をしてはならない。我々はすべての善意ある提案を歓迎する。しかし、根拠のないいかなる叱責をも断じて拒絶する」

 私は記者会見会場の映像を観たが、王毅の表情や姿勢は断固としていた。強硬的で、会場に駆けつけたカナダ人全体を“敵”に回すかのような、挑発的とも言えるパフォーマンスを見せつけた。もちろん、王毅、および王毅の立ち振る舞いの支持者たちは「カナダ側が挑発的な態度を取ってきたから、こちらも挑発的に返した」という弁明をするであろうが。

 特に最後の部分は傲慢に聴こえるが、王毅にとっては計算内の表現だったに違いない。習近平時代に移行してから顕著になってきている「中国には中国のやり方がある。中国の歴史や国情を知らない西側諸国にとやかく言われる筋合いはない」という共産党指導部の潜在意識を、代弁するようなコメントである。

 さて、本稿で読者の皆さんと考えてみたい問題がある。それは、私が王毅の前述のコメント、およびカナダ人記者とのやり取りを眺める過程で覚えた違和感と関係している。私は不意に首を傾げ、こう感じざるを得なかった。

「噛み合ってないな」

噛み合わない王毅とカナダ人記者との質疑応答

 私が「噛み合ってない」と感じた2つの対象は言うまでもなく、王毅とカナダ人記者である。ただ、記者会見に参加した同業記者、さらに王毅と共に記者会見に臨んだディオン外相、もっと言えば、西側の政治制度と価値観の下で生きるほとんどの人間は、質問をした女性記者と同様の立場と視点で中国の人権問題を認識しているに違いない。その意味で、前述の場面は決して個別のケースなどではなく、極めて普遍的な場面であると私は考えている。要するに、特定の概念を巡って、中国と西側の認識や解釈は往々にして噛み合っていないのである。

 王毅とカナダ人女性記者のやり取りをケースに、何がどう噛み合っていないのかを具体的に考えていきたいが、香港フェニックスグループのウェブメディア・鳳凰網がコラム『鳳凰論』にて評論部の名義で、中国と西側の“人権”の2文字をめぐる定義と認識のギャップについて比較をしている(『王毅の怒り、中国の人権をめぐる言語体系は国際化する必要がある』)。

「人権とは何か? この問題に対して、中国は自らの認識を持っている。最も重要な人権とは発展権であるというものだ。つまり、全ての人間が貧しさを逃れ、豊かになること、生活における権利を充実させることである。30年来の迅速な発展を経て、物質面が徐々に改善を遂げてきたことは人権問題の重要な体現であると中国人は理解する。管仲曰く、倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄達を知る。経済の発展がなければ、政治の権利は物質的基礎と保障を伴わないのである」

「女性記者が口にした人権の根源は啓蒙時代にまで遡る。自由や平等といった政治理念に対する関心であり、それらの言語体系は一種のイデオロギーを形成してきた……(途中省略)これらは二、三百年の発展を経て現実になり、国際的に実践される上での重要な構成部分となった。また、今日では人権は主権よりも優先されるか否かという論争も呼んでいる」

 王毅が物質的発展にフォーカスした権利を語り、カナダ人記者が政治的自由・理念に重点を置いた権利を問うたことは明白であろう。どちらが正しいか否かを議論すること、双方の主張に優劣を付けることは建設的ではなく、本稿の目的にも符合しないため、ここでは触れない。広辞苑が人権(human rights)を「人間が人間として生まれながらに持っている権利。実定法上の権利のように自由に剥奪または制限されない」と定義しているように、発展権も政治的自由も共に広義における人権の範疇に含まれると言ってよい。

 一方で、実践と普及という観点から見た場合、国際社会が人権を議論する際に、衣食住が満たされるという物質的な権利だけでなく、出身に関係なく公平に生きていける権利、権力からの抑圧や束縛なく自由に発言できる権利、自らの意思に則って出版や結社ができる権利などが含まれるべきなのは言うまでもない。主流的な国際社会・世論において議論される“人権”が西側のそれを指すことに関して、少なくとも現段階においては議論の余地はないと言える。

中国が自らの人権をめぐる発言権や解釈権を広めたい意図

 同評論が結論部分を次のようにまとめているのは興味深い。

「中国はすでに転換期に突入している。国家アイデンティティの分野においても、被害者情緒から脱却し、領導される国家から領導型国家へと転換し、世界との関係も最初から見直してみる必要がある。中国は世界最大の貨物貿易国家であるが、いつの日か世界最大の観念輸出国家になることによって、海外の記者からの鋭い問題提起の背後にある観念の隔たりは初めて過去のものとなるであろう」

 私の理解と経験からすれば、鳳凰網は他のメディアと比べて一定程度リベラルな媒体である。これを前提に最終段落を検証してみると、中国がこれから政治制度や価値観といった要素にどう向き合い、どう処理しようとしているのかというテーマの一端が浮かび上がってくる。

 私から見たキーワードの1つは“観念輸出国家”である。同評論は、中国と西側が“人権”を巡って異なる定義と解釈を持っていること、国際的実践という観点からすれば、中国の人権をめぐる発言権・解釈権と西側のそれらの間にはギャップが存在することを提起している。本文内では“時差”という表現が使われている。問題は「それではどうするか」であるが、同評論は、西側の人権に追いつくように努力しようではなく、中国自らの人権をめぐる発言権や解釈権を広めるべく努力しようというスタンスを取っている。

 要するに、中国は中国の道を歩むという意味である。その背後には、西側と中国の間に存在するのはあくまでも“違い”であり、中国が西側から“遅れ”を取っているわけでは決してないという、強くて深い潜在意識が横たわっているように私には思われる。そして、この点に関しては、人権というテーマだけでなく、中国と西側の間で広範に比較されることの多い政治制度や価値観の分野においても、同様の文脈で“この現状”を整理することが可能である。

 2014年9月5日、習近平総書記(以下敬称略)が全国人民代表大会設立60周年の式典で発表した談話に、次の一節がある。

「人民代表大会の制度を堅持・充実させるためには、人民が主体となることを保証・発展させなければならない。人民が主体となることは社会主義民主政治の本質であり核心である。人民民主は社会主義の生命である。民主がなければ社会主義はない、社会主義の現代化もなければ、中華民族の偉大なる復興もないのだ」

 問題は、この段落の前に習近平は「人民代表大会の制度を堅持・充実させるためには、いかなる動揺もなく、断固として中国共産党による領導を堅持しなければならない」と指摘していることである。「人民が主体となること」は、少なくとも概念という次元において日本における“主権在民”に相当するであろうが、前述の文脈を注意深く読んでみると、中国政治においては、中国共産党一党支配、社会主義、民主主義、中国の夢(筆者注:習近平が指導思想として掲げる中国の夢は“中華民族の偉大なる復興”と定義される)は一体であり、すべては一本の線で結ばれているというロジックが見て取れる。

 本稿を読んでいただいている方々を含め、国際的実践という意味で普遍的な自由民主主義社会で生活している人間からすれば、ほとんど理解に苦しむロジックに聞こえるであろう。たとえば、「共産党の一党支配の下、自由で公正な選挙で構成される政党政治もなく、報道や言論は党・政府によって統制されている社会のどこに民主主義などあるのか?」という類の疑問を抱くに違いない。

中国が人権を重んじていなければここまで発展できるわけがない?

 ここでも“噛み合わない”という問題が生じてくる。

 これまで中国において色々な人々と付き合ってきたが、自由、民主主義、人権などに話が及ぶと、多くの人間(個人的感覚では5分の4以上)が最終的に、腰を上げて、前のめりになり、声高らかに次のような反応を示してくる。

「実際に中国はとても自由な国だ。日本や米国よりも自由だ」

「中国が人権を重んじていなければここまで発展できるわけがない」

「中国には中国の国情があり、中国には中国の民主主義がある」」

 そして、そんな人々は前出の習近平談話における次の一節に、強烈に賛同する傾向が見て取れる。

「政治制度において、他国にあって我が国にないことを以て、欠陥がある、導入しなければならないと考えたり、逆に我が国にあって他国にないことを以って、それらは余分なものであり、捨てる必要があると考えるのは、単純化しすぎた、偏った、故に正しくない見方である。我々は海外の政治文明における有益な成果を参照しなければならないが、中国政治制度の根本を放棄することがあっては絶対にならない。中国には960万平方キロメートルの土地があり、56の民族がいる。我々にどんなモデルを導入しろというのだ?こうすべきだ、ああすべきだと我々を指揮できる者がいるとでもいうのか?」

自国ならではの自由と民主主義が西側を凌駕すると信じている中国

 最近、私は前述の議論にも関係する1つの感想を改めて痛感している。中国において、指導者から知識人まで、企業家から一般大衆まで、市民から農民まで、ほとんどの人間は中国には中国の自由があり、民主主義があり、人権があり、それらは歴史や国情に符合した正しい産物であると考えている。彼ら・彼女らのあいだでは、中国と西側のあいだに“ギャップ”が存在することは気にしないし、問題視もしない、それどころか、中国のそれのほうが優れており、いずれは中国の政治制度や価値観が西側のそれを凌駕すると信じている人間も少なくない。

 鳳凰網の評論が“観念輸出国家”という視点から指摘するように、中国は今後、国家の発展方式を指す“中国模式”というハードウェアだけでなく、“中国価値観”というソフトウェアを国際社会で普及・浸透させ、より多くの国家・地域が中国の制度や価値観を尊重し、“お友達”になってくれるよう工作していくに違いない。

 そんな中国と向き合い、つき合っていく上で、私たち外国人、特に西側の価値観の下で生きる人間に求められるのは、前述のカナダ人記者のように「中国の人権状況は……」という、頭ごなしで結論ありきの問題提起をするのではなく、「まずは中国共産党や中国人民が考える“人権”(human rights)の定義を教えてください。我が国を含めた多くの国家において、人権とはXXXであり、YYYのように解釈・実践されていますが、中国の人権はそれらとどう異なるのか、異なるとすればなぜなのか、どのような背景があり、これからどのように変遷していく見込みなのかをお聞かせください」という具合に、丁寧かつ段階的に問題を提起し、相手の認識や見解を引き出していく気配りと粘り強さであろう。

 戦略は細部に宿る。複雑に膨れ上がっていく中国を前に、そんな1つの道理を思い浮かべる今日この頃である。


特に最後の部分は傲慢に聴こえる?think当たり前だ!中国は昔からず〜〜と日本人を見下してやってる!yell

🍎たったひとつの真実見抜く、見た目は大人、頭脳は子供、その名は名馬鹿ヒカル!🍏