「日中国交正常化」~ 幻想から幻滅へ

 

■1.「コンピュータ付きブルドーザー」の電撃訪中■

 

1972(昭和47)年9月29日午前10時20分、北京の人民

公会堂で日中共同声明の調印式が行われた。日章旗と五星紅旗

が飾られたテーブルに着席した田中角栄首相と大平外相、周恩

来総理と姫鵬飛外交部長は、毛筆で日中国交正常化に合意する

共同宣言文に署名した。調印式のあと、大平外相がプレスセン

ターで次のような談話を発表した。

 

これまでの日中間の不正常な関係に終止符が打たれたこ

とは、アジアの緊張緩和に重要な貢献をなすものと考える。

 

日中国交正常化の結果として、台湾と日本との外交関係

は維持できなくなる。

 

この年の7月7日に就任した田中角栄首相が内閣発足後3ヶ

月足らずして電撃的に訪中し、5日間でまとめあげた共同宣言

であった。戦後30年近くもの間、歴代内閣が手のつけられな

かった外交課題をわずか3ヶ月で片づけるという、いかにも

「コンピュータ付きブルドーザー」の異名をもつ田中角栄らし

い仕事だった。「日中友好」新時代の到来を誰もが感じ取った。

 

■2.「日中友好」の幻滅■

 

しかし、その後の30年の日中関係を見ると、人々の期待感

は次第に幻滅に変わっていることが分かる。内閣府で毎年行っ

ている「外交に関する世論調査」では、日中関係が「良好だと

思う」「まあ良好だと思う」は、昭和61年には76.1%も

あったのに長期低落傾向を続け、平成13年には41.3%と、

「あまり良好だと思わない」「良好だと思わない」の48.5

%を下回っている。

 

年齢別に見ると、「あまり良好だと思わない」「良好だと思

わない」人は、70歳以上では35%、60歳代では46%に

対して、20歳代では実に57%に上っている。

 

「日中友好」の夢は年月と共に次第に「幻滅」に変わり、そも

そもが「幻想」だったのではないか、というムードが広がりつ

つある。これには中国側の執拗な靖国参拝批判・教科書批判、

巨額の経済援助を与えながら感謝もしない態度、在日中国人の

犯罪など、様々な問題が絡まり合っているが、最初のボタンの

掛け違えが「日中国交正常化」の「異常ぶり」にあったのであ

る。

 

■3.中国は日本との経済関係を必要としていた■

 

そもそも日中国交を切実に必要としていたのは、日本側では

なく中国側であった。当時、中ソ関係は冷え切っており、国境

線沿いに両軍合計2百万の大軍が睨(にら)み合っていた。19

69年3月には中国東北部アムール川(黒竜江)上の小島・珍宝島

(ロシア名ダマンスキー島)で初の大規模な武力衝突が発生、同

年8月には新疆地区でも軍事衝突が起こった。

 

ソ連はさらに「アジア集団安保構想」を提唱し、同時にイン

ドとの連携を強めてインド洋でのソ連海軍強化を進め、中国包

囲網を着々と築きつつあった。日本に対しても、シベリア開発

計画への参加を求めて接近を図っていた。

 

一方、中国は1958年から1960年にかけて毛沢東の「大躍進政

策」の失敗により2、3千万人と言われる餓死者を出し、その

回復に60年代前半を費やした。さらに65年秋に毛沢東が失地

回復を狙って文化大革命を引き起こし、67年には全土が内戦に

近い状態となり、工業生産は著しく低下した[a,b]。71年から

始まった第4次五カ年計画において、実権を握りつつあった周

恩来総理を中心とする実務派はなんとか経済態勢を立て直そう

としていた。

 

内には政治・経済の混乱を抱え、外にはソ連が着々と包囲網

を築くという危機的状況の中で、周恩来は西側諸国との連携で

活路を見出そうとした。幸運にもアメリカ側もベトナム戦争を

終結させるために、中国との交渉を欲していた。

 

経済面の立て直しには、日本の協力が不可欠だと周恩来は見

ていた。金属・機械・化学など経済建設に重要な物資の輸入元

として対日貿易は伸びつつあり、70年には中国の輸入の中で日

本は20%を占めるに至っていた。中ソは争って、経済大国・

日本を味方に引き寄せようとしていたのである。

 

■4.中国の華々しい再登場■

 

一方、多くの日本国民にとって、中国とは得体の知れない不

気味な存在であった。1970年5月時点の時事通信社による世論

調査では、中国を「好き」と答えた人はわずか2.5%であり、

逆に「嫌い」と答えた比率は33.2%と、ソ連31.9%、北

朝鮮32.6%を上回っていた。[1,p192]

 

経済的に見ても日本の貿易総額に占める対中貿易の割合はわ

ずか2%程度であり、無視できるほどの量であった。

 

日本国民の中国イメージが大きく変化したのは、71年から72

年にかけてであった。周恩来の外交戦略が一気に結実した時期

である。まず72年3月に名古屋で開かれた第31回世界卓球選

手権大会に中国チームを派遣。文化大革命の混乱で第29回、

30回を欠場していたので、6年ぶりの登場であった。今まで

敵対していた米中両国の選手が仲良く語り合う光景が報道され

た。

 

7月にはキッシンジャー大統領補佐官が秘密裡に北京で周恩

来と会談し、ニクソン大統領の1年以内の訪中に合意した。7

月15日、ニクソン大統領自身が全米に向けたテレビ放送で訪

中計画を発表し、世界を驚かせた。

 

この秋の国連総会では、中国の国連加盟が実現し、台湾は自

ら脱退した。中国の国際社会への華々しい再登場に、日本国民

の対中イメージは大きく揺すぶられることになった。

 

■5.「田中さんには恥はかかせません」■

 

翌72年2月、ニクソン訪中を無事にこなした周恩来は、対日

攻勢を強める。おりしも日本では佐藤栄作政権の末期にあたっ

ており、7月には総選挙と次期政権の成立が日程に上っていた。

この時にあわせて、周恩来は上海バレエ団を訪日させ、東京や

大阪など5都市で一ヶ月にわたって公演を続けて、一気に日中

友好ムードを盛り上げようともくろんだ。

 

またそれまで激しく展開していた「日本軍国主義」批判のキ

ャンペーンを、1月下旬を期してピタリと止めさせていた。周

恩来は5月に公明党の代表団を招いて、こう語った。

 

皆さんは、次の総理は田中(角栄)さんだとおっしゃて

いるようですが、間違いありませんか。私たちも、次の総

理は田中さんだと思っております。

 

もしそうであるならば、田中さんに伝えて下さい。「も

し総理になられてご自身で中国へお見えになるならば、北

京の空港はいつでも開けてお待ちしております。そして、

私がホストで田中さんをお迎えいたします。田中さんには

恥はかかせません」、とね。[2,p85]

 

■6.田中の「大逆転シナリオ」■

 

田中は親米・親台湾を信条とする佐藤栄作の派閥に属してい

たが、その後継者は福田赳夫というのが既定路線であった。そ

の福田を追い落とすために田中が描いた「起死回生の大逆転シ

ナリオ」が、「日中国交回復」による大平派、三木派の抱き込

みであった。大平正芳、三木武夫は根っからの親中派であり、

「日中国交回復」を悲願としていた。田中自身は中国に対する

思い入れはなかったが、彼等を懐柔するためにこれを飲んだ。

[3,p128]

 

7月7日、田中は大平・三木との連合で福田赳夫を破り、政

権をとった。三木は副総理、大平は外相に就任した。田中首相

は初閣議後の記者会見で、「中華人民共和国との国交正常化交

渉を急ぎ、激動する世界情勢の中にあって平和外交を強力に推

進していく」と発表した。

 

周恩来はこれに素早く反応し、7月9日に「田中内閣は7日

に成立、外交に関し日中国交正常化の早期実現を目指すことを

明らかにしたが、これは歓迎に値する」と応えた。

 

■7.「これは大変な国に来たな」■

 

田中首相は9月25日に北京入りした。30度を超える暑い

日だったが、迎賓館の部屋は田中の好きな17度に設定されて

おり、田中の第一声は「ああ涼しくて助かる」だった。部屋の

隅にはさりげなく田中の好きな台湾バナナ、富有柿、木村屋の

あんパンが置いてあった。「これは大変な国に来たな」と日本

側は驚いた。

 

その日の午後から首脳会談に入り、5日目の29日に日中共

同声明の発表に至った。交渉前に田中首相と大平外相が頭を悩

ませていたのは、中国が戦争賠償問題を持ち出してくることだ

った。周恩来は事前に公明党を通じて、「賠償請求権を放棄す

る」と伝えていたが、いざ会談に入ると再び賠償問題を持ち出

して、日本側をうろたえさせた。

 

しかし、その後、周恩来はこの問題をあっさりと引き下げた。

これに気をよくした日本側は、賠償の代わりにとばかり中国側

が持ち出した援助要請を承諾する。これが現在までに総額6兆

円に上るODA(政府開発援助)その他の対中援助の発端であ

る。[c]

 

中国はその後、ODAを賠償の一部であるかのように扱いは

じめ、感謝や評価は一切せず、むしろ賠償の代わりだから出す

のが当然という態度をとる。さらに繰り返し歴史認識問題、靖

国問題、教科書問題と「歴史カード」を繰り出して、ODAの

継続を狙うようになる。こうした中国側の姿勢は日本国民の嫌

中感情を増幅させていく。

 

また中国政府は、田中訪中の前年から突如、尖閣列島の領有

権を主張し始めていた。この地域に膨大な海底油田が見つかっ

たからである。本来の国交正常化交渉であれば、当然、こうい

う領土問題は真っ正面から議論すべきであった。しかし田中は

交渉の難航を恐れて、この問題を棚上げにしてしまう。対日接

近を必要としていたのは中国の方であり、また中国側が突然、

領有権を主張し始めたこの時点なら、日本側は断固として突っ

ぱねることができたはずである。それを「国交正常化」を急ぐ

あまりに、この問題を曖昧な形で棚上げにしてしまった事で、

その後の日中関係に禍根が残してしまったのである。[d]

 

■8.「台湾断交」の拙速■

 

田中外交の拙劣・拙速は、台湾との断交にも顕著に表れてい

る。「台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部である」と

いう中国の立場を、日本政府は「十分理解し、尊重」する、と

の一項が共同宣言の中に入れられた。

 

従来から各国が中国と外交関係を樹立する際には、中国の主

張をカナダのように「テーク・ノート(留意)する」、あるい

はオーストラリアの「アクノレッジ(認識)する」という程度

の表現が用いられていた。これらは中国の主張を正式に承認す

るわけではないという事を明らかにしているが、「十分理解し、

尊重する」という日本の姿勢はさらに踏み込んだものであった。

ここから、あたかも日本は「台湾は中国の一部」という中国の

主張をすでに承認したかのような錯覚が日本国民の間でも生ま

れていく。

 

大平外相は共同声明調印後のプレスセンターでの談話におい

て、「なお、共同声明の中には触れられていないが、日中国交

正常化の結果として、(台湾との)日華平和条約は存在の意義

を失い、終了したものと認められるというのが日本政府の見解

である」と述べた。

 

中国側は日華平和条約はそもそもから非合法で無効であり、

廃棄すべきものと主張したが、日本としては20年も前に正規

の手続きを踏んで締結した国際条約を今更、非合法であったな

どとはとうてい言えない。そこで「存在の意義を失い、終了し

た」として、なんとか辻褄を合わせたのである。しかし、どう

言い繕おうと国際条約を一方的に破棄するという外交信義にも

とる決定をした事で日本外交史に汚点を残してしまった。

 

台湾との外交断絶が田中・大平の勇み足であった事は、アメ

リカと比較するとよく分かる。ニクソン大統領は田中首相より

先に訪中したが、米国が北京政府との間に正式の国交を取り結

ぶのは、フォード、カーターと二代も後の7年後のことだった。

この時には米国は「台湾関係法」を成立させており、もし中国

が台湾に武力侵攻したら、米軍が介入する事を明言していた。

 

台湾との断交は、日本の国内世論からもかけ離れたものであ

った。71年9月時点でのNHK調査では、「日中国交回復を進

めるが、台湾との関係は慎重に」が39.2%、「日中国交回

復を進めるが、台湾との関係を犠牲にすべきでない」が27.

7%で、「日中国交回復のためには台湾との関係が切れてもや

むを得ない」の11.0%をはるかに上回っていたのである。

台湾との断交は、国民の声を無視した田中外交の暴走であった。

 

■9.「幻想」から「幻滅」へ■

 

台湾との外交関係は断絶するが、これまでの日台関係の実質

的な継続は認める、と約束させた点は、この交渉で日本が挙げ

た数少ない得点のように思われたが、それが周恩来の外交戦術

に過ぎなかったことは、すぐに明らかになった。

 

第一回目の首脳会談で、周恩来は「台湾に対しては、日本は

従来と同じように、経済交流、人事交流、文化交流をやってく

ださい。ちっとも干渉しません」と述べたと伝えられている。

[2,p144]

 

しかしすでに70年4月に中国は「周恩来四条件」を打ち出し

て、台湾との取引を行っている企業は、対中貿易から閉め出す

との方針をとっていた。この結果、多くの日本企業が台湾から

引き揚げざるをえなくなり、日台関係は70-80年代を通じて、

急速に冷え込んでいく。

 

「日中国交正常化」は、評価も感謝もされないODAとそれを

続けさせるための「歴史カード」、尖閣列島問題、台湾断交な

どの禍根を後に残し、それらが日本国民の間に嫌中感情を広げ

ていった。さらにODAにまつわる利権は、田中角栄から竹下

登、橋本龍太郎と引き継がれて、日本の対中政策をゆがめてき

た。

 

唯一の成果らしきものは、日中貿易の発展であるが、これも

むしろ中国側が求めていたもので、アメリカ政府のようにじっ

くり構えていても、結果はさほど変わらなかったであろう。拙

速の「国交正常化」を成し遂げた日本の企業が、アメリカ企業

よりも大きな利益を得たとは思われない。逆に台湾との経済関

係では大きなマイナスを蒙ったのである。田中角栄は周恩来と

いう希代の大戦略家に遠隔操縦されていた「ラジコン付きブル

ドーザー」ではなかったのか。

 

平成14年9月22日には、「日中国交回復30周年を成

功・発展させる議員の会」の橋本龍太郎元首相を筆頭に、日本

から1万3千人もが北京での式典に参加した。しかし国民の間

の雰囲気は一向に盛り上がらなかった。「日中国交回復」の

「幻想」はすでに「幻滅」に変わっていたのである。

(文責:伊勢雅臣)

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